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年賀状のひと言に“喝”!

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通訳・翻訳者リレーブログ

お正月、なにが楽しみかと言えば、やはり友だちから送られてくる年賀状。1枚1枚ゆっくり眺めながら、あのひとこのひとに思いを馳せる瞬間は、こころが弾みます。
地方へ引っ越してしまった為に、もう何年も会えず、“声”を聞けるのは、1年に1度のこの時期だけ。そういう懐かしい友だちの場合は、なおさらのこと。前年に起こったこと、仕事のこと、家族の近況、今年の予定など、そこに添えられた短いひと言を、毎年ワクワクしながら読んでいます。

しかし、そんな中、毎年たびたび目にする文面があります。読みながら強い違和感を覚える一文です。

それは、こんな内容のものです:
“今年はいまの仕事を辞めるつもり。英語を使った仕事をやりたい。今度相談に乗って”
“家の方が落ち着いて、時間に余裕が出来た。自宅とかで、1日数時間だけ出来るような、英語の仕事、何でもいいから紹介して”

そうしてたいがい、“この件に関して、また改めて連絡するね”…と結ばれています。そうして実際、その後に連絡が来ます。中には、“えっ、このひと、どんなひとだっけ? なにしているんだっけ? 英語できたんだっけ?”…というような“友だち”もいます。

こんな時、
“バカにしないでよ〜!”…と、思いきり叫びたくなります。山口百恵さんではありませんが。(←例えが、ちょっと古い?)
そうしてその都度、はっきりとお断りしています。冷たいオンナに聞こえるかもしれませんが。

でもやはり、“ちょっとそれ、違うんじゃないの?”…というのが、実感なのであります。

もちろん、
業界内の同業者同士では、仕事を振ったり振られたり、譲ったり譲られたり、頼んだり頼まれたりすることは、よくあります。
“自分ひとりでは出来そうにないから、手伝ってくれる?”とか、“いったん引き受けたんだけど、急用ができて出来なくなってしまった”などなど。そうした場合は、出来る限りのことをやり、助け合っています。
それは互いに長い年月、同じ世界の中で生きる者として、当たり前のこと。互いのことを、こころから認め合い、信頼しているからこそ。“このひとは凄い仕事をする”“このひとは凄い才能をもっている”“このひとには敵わない”…と、ひと目置いているからこそ、迷わず気持ちよく出来ること。
それは5年や10年、この世界で仕事しているくらいで培われる思いでは、けっしてないのです。

冒頭の話に戻りますが、
“英語が好き”という、まるで意味の分からない理由で、紹介できる“英語の仕事”など、私の知る限り、ひとつもありません。それから、“大学は英米文学科だった”とか、“高校時代1年間留学した”程度の経験など、なんの役にも立ちません。そんな程度の、それも昔々のことで、通訳や翻訳の仕事に、ありつけるわけがありません。
ましてや、“時間に余裕が出来たから”“家で出来そうだから”…など言語道断。“何でもいいから”? じ…冗談じゃありません!
“仕事”というものを、舐めているとしか思えません。

“プロフェッショナルとアマチュアの違いはなにか?”…という質問をよくされますし、色々なところで論じられます。“凄いアマ、プロと同レベル、差がない”…という言い方も、たびたび目にします。

しかし私は、その差は歴然とあると感じています。
翻訳家にしろ音楽家にしろ、漫画家にしろ写真家にしろ、どの世界の専門家にしろ、趣味でやっているひとと、仕事としてやっているひととは、明らかに違います。
はい、プロフェッショナルとアマチュアでは、雲泥の差があります。

その違いとは何か…。

プロはみんな、同じ世界に何年も居続け、その中で色々なものを見て、色々な経験をし、血を吐くような思いをし、そうして生き残ってきています。それだけに、仕事に対する思いや取り組む姿勢は、生半可なものではありません。身を置く世界や自分の仕事に対する“懸け方”が、アマチュアとはまるで異なります。
だからこそ、プロフェッショナルなのです。
“それが実際の仕事の仕上がり具合と、どう関係があるの?”…と言われそうですが、でもこれが大いにあるのですよ。

こうした“凄み”“気迫”が、その仕事や作品に出ますから。痛いほど、確実に。
“まぁいいや、これくらいで。この辺で終わらせておこう。これから約束があるし、家に帰ってやらなきゃいけないこともあるし”…などというような“緩い思い”で取り組んだ作品は、それだけ“緩いもの”に仕上がってしまいます。
“緩い仕事”では、ひとに感動を与えることなど、けっして出来ません。そんな“空っぽ”なもので、報酬を得ようなどと考えるのは、とんでもないこと。
プロの世界では、そんなものは通用しません。たとえ1度や2度通用したとしても、それまでです。その世界で生き長らえることなど、とうてい出来ません。

プロはみんな、命がけで仕事をしています。命を削っているようなところさえあります。色々なものを犠牲にしています。あっ、いいえ、“犠牲”という言葉は、ここでは相応しくないかもしれません。そういう感覚はないですから。
そうしてそんな状況の中、心底楽しんでいます。ちょっと理解不能でしょうか。でもそんなものですよ、みんな。
ですから、それだけの強い思いや志のないひとに、仕事などして欲しくはありません。はい、生半可な気持ちで出来る“英語の仕事”など、残念ながら皆無です。

世の中、そう甘くはないですよ!

音楽雑誌編集部で働き始めた頃、当時の編集長(つまり私の上司)に、“10年やって、やっとスタートラインの立ったと思え”…と言われたことがあります。深くこころに残っている言葉です。
その時は、その意味がよくは分かりませんでした。しかし実際その“スタートライン”に立ち、そうしてそれから更に10数年が過ぎたいま、そのひとの言いたかったことが、少しだけ、分かったような気がしています。
仕事を始めた頃は、“10年”でも凄く長い期間のように思えました。“おいおい、そうしたらそれだけで32歳だよ!”…と。でもいま思うと、32歳なんて、まだまだヒヨッコ。たかだか10年。そうして、たかだか20数年…です。そうしてその間、自分で100点満点をつけられるような仕事など、ひとつもやれていません。ひとつもないからこそ、こうしてやっていられるのだと思っています。
それでもこんな私でも、ここまで続けてこられたのは、人間関係に恵まれていたから。これに尽きます。そうしてそれは、社会人になってからこの方、ずっと同

じ業界に棲息し続けていたからこそ、育めてこられた、とてもとても大切なもの。
ちょっとやそっとで築けるようなものではありません。

“仕事”とは、そういうものです。

仕事とは、長く深くつき合わなければならないもの。
こころ満たしてくれそうで、でもなかなか満たしてくれないもの。手に入りそうで、でもなかなか手に入らないもの。追えば追うほど、逃げてゆくもの。それだけに、楽しくて愛おしくて仕方がないもの。
時には煩わしく、時には鬱陶しく。それでも、時間の経つのを忘れてしまうほど、強く想い続けられ、深く没頭できるもの。
“100%自分のものに出来る日”が、いつか来ることを夢見つつ、周囲のプロフェッショナルたちを見習いつつ、彼らに少しでも近づけるよう、一生涯、真摯に向かい合い、つき合っていきたいもの……。

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記事を書いた人

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高校までをカナダと南米で過ごす。現在は、言葉を使いながら音楽や芸術家の魅力を世に広める作業に従事。好物:旅、瞑想、東野圭吾、Jデップ、メインクーン、チェリー・パイ+バニラ・アイス。

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