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増えていく日本語

the apple of my eye

通訳・翻訳者リレーブログ

翻訳を続けていると、新しい概念や意味の言葉によく出会う。特にコンピュータ関連や、マネジメント関連にその傾向が顕著なようだ。

2003年4月30日、イスラエル—パレスチナを巡る中東和平案で米国が中心となって提示した Road Map for Peace Process で、日本のメディアの多くが road map を「ロードマップ(行程表)」と表現していた。この少し前に、例えば企業のシステム改革に関するビジネス文書などで、この road map が使われているのに何度か出くわしたのだが、当時の辞書には「道路地図、ロードマップ」程度の訳語しか載っておらず、これがある特定の目標を達成するための計画の道筋を示す意味でも使われると示しているものはなかったように思う。中東和平案の発表で、このroad map が一挙に時事用語として知られるようになり、マネジメント関連などのビジネス文書でも、訳語として「ロードマップ(行程表)」を使えるようになった。あれから3年、パレスチナではアラファト議長も亡くなってしまい、過激派のハマスが政権を取り、中東和平はどんどん遠のくような気がするけれど……。

road map に似た言葉で milestone というのもある。こちらはもともと「一里塚」、つまり距離を測るために一定の間隔で何か目印になるようなものを置く、その目印のことをいうのだが、ビジネス用語では、あるプロジェクトの中での重要なポイント、すなわち「いついつまでにこれこれを完了しなければならない」と決めておく場合の、それぞれの「いついつ〜」のこと。「主要管理点」と訳したりするが、最近では「マイルストーン」でも通じるようになってきている。

value proposition (企業が顧客に提供する価値)、core competence (他社に真似できない核となる能力)、compliance (法令順守)、corporate governance (企業統治)、accountability (説明責任)なども、ここ10年位で登場した新しい概念で、経営用語として頻繁に使われるようになり、「コア・コンピタンス」などのようにそのままカタカナ読みで用いられることも多い。

こういう言葉が出てきたときに翻訳者として注意すべき点がいくつかあると思う。
1つは、訳語の選定。たとえば core competence は G・ハメルと C・K・プラハラードの著書『コア・コンピタンス経営』(日本経済新聞社)で紹介された概念なので、これを「コア・コンピタンス」と訳さずに、「核となる競争力」などと訳してはダメだ。しかし compliance や accountability は、「法令順守」「説明責任」と訳してもかまわないし、カタカナ読みのままでも良い。

では、その判断はどうやってつけるのか。
原文の表現を見て、辞書で調べ、そのままそこに出ている訳語を引っ張ってくるだけという作業をしていると、必ずといっていいほど誤訳が発生するか、意味不明な訳文になるだろう。辞書に出ていない表現の方がまだ安全だ。辞書以外の手段で、その言葉の意味を調べなければならないのだから、少なくともその表現の意味は理解して訳文に反映させることができる。

訳していて、辞書の訳語をそのまま使わず自分の言葉で説明できない表現がある場合は、必ずしっかり意味を調べなければならない。辞書の訳語が必ずしも正しいわけでも、自分が今取り組んでいる文書に適切な表現というわけでもないからだ。

たとえば、value proposition には、前出の「コア・コンピタンス」のような定訳はない。「価値命題」という訳語が載っている辞書はあるだろう。しかし「価値命題」という日本語を用いて、たとえば「競争に打ち勝つために、企業は価値命題を構築しなければならない」という文章の中で、意味がスッと理解できるだろうか。この文章を読んだ人は「じゃあ『価値命題』って何?」と聞き返したくならないか、「価値提案」の方が分かりやすくないか、あるいは「コア・コンピタンス」と同様、マネジメント上の一定の概念を表す言葉ではあるのだから、「バリュー・プロポジション」とした上で、(=企業が顧客に提案する価値)と説明をつけたほうがよくはないか、など、原文の文書の種類、想定される読者(文書の利用者)、文書が利用される場面などを考慮に入れて判断しなければならない。

また、その訳語が用いられている文書の種類から、選択した訳語が正しいかどうかの判断のヒントが得られる。コンピュータや情報システムに関する文書で legacy とあったら、「遺産」のことではなく、legacy system のように「古くなって時代遅れになったもの」を指す。訳語は「レガシー・システム」でいい。critical path が、あるメーカーのプロジェクト・マネジメントに関する文書で出てきたら、「それが終わらなければ次の工程に進めない工程」だが、医療関係の文書の場合は「目標として定めた効果を達成するために最高の質の医療を最短の日数で提供できるよう配慮した治療計画」を意味する。これも「クリティカル・パス」のままでいい。

こうやって今までの辞書にない意味や使い方の言葉・概念が次々に生まれていく。翻訳はそれとの追いかけっこだ。あまりに新しい外来表現が増えたため、「国立国語研究所」が日本語への言い換え(例:インフォームド・コンセント→納得診療)を決めたものもいくつかあるが、これも追いかけっこ。それに必ずしも適切な言い換えとはいえないものもあるし。翻訳者としては、1つ1つ意味を調べてどのような訳語が最も適切かをその都度考えていくしかない。

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記事を書いた人

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日本・米国にて商社勤務後、英国滞在中に翻訳者としての活動を開始。現在は、在宅翻訳者として多忙な日々を送る傍ら、出版翻訳コンテスト選定業務も手がけている。子育てにも奮闘中!

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