INTERPRETATION

第370回 なぜこの仕事を?

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

以前、中学校の職業体験の一環としてインタビューを受けたことがあります。通訳という仕事について生徒たちが事前に調べ、それを元に現役通訳者へ質問し、その内容をまとめるという活動です。都内の公立中学校から3名の生徒さんたちが私の指導先の通訳学校へ来校し、色々と質問を投げかけてくれました。

お尋ねの中の一つに「私は英語が好きなので、将来英語の仕事、通訳の仕事をしたいです。どうしたら良いですか?」というものがありました。聞けば学校での授業は楽しく、積極的に自宅でも学んでいるのだそうです。

未来を担う若い人たちが、こうして私の携わる仕事に興味を持ち、研鑽している様子を見ると本当に励まされます。AIや自動通訳機の到来が叫ばれる時代ですが、やはり通訳分野であっても生身の人間にしかできないことはあると私は思うのです。ゆえに、英語の勉強を頑張る後進の方々には心からエールを送りたいと思います。

とは言え、他の仕事同様、通訳業も実際に稼働してみると楽しいことオンリーとは言い切れません。お給料を頂戴して、それに見合ったサービスを提供するわけですので、いつもいつもハッピーなことばかりとはいかないのですよね。ハードな案件もありますし、苦手分野を依頼されることも当然あります。特に自分にとって未知のカテゴリーとなれば、なおさらプレッシャーは高くなります。一つ例をお話ししましょう。

BBC日本語部に勤めていた90年代後半、私にとって最大の「避けたいニュース」はスポーツでした。もともと私は運動が大の苦手。スポーツ観戦経験もありません。かろうじてテニスとバドミントンをしたことはありますが、それも小中学校時代のこと。ルールもほぼ忘れている状態でした。

当時BBCは10数人でニュースを一日中通訳していました。あらかじめシフト編成時に担当を決めており、メインキャスター、ビジネスニュース、スポーツニュース、現地特派員という具合に振り分けていたのです。部内には1週間分の担当表が貼り出されるのですが、週の初めにそれを見て「うわっ!月曜日はスポーツ担当かあ。週末にたくさん試合があるから、スポーツニュースもてんこ盛りだろうなあ。ああ、どうしよう」と私など思ったものでした。

なぜ苦手だったのでしょうか?それには3つの理由がありました。

まず、各競技にはルールがあり、専門用語が存在します。よって、ルールを知らなければそもそも理解できず、用語の通訳もおぼつかなくなってしまうのですね。

2点目は言い換え表現が多いこと。たとえばF1のハミルトン選手の話題の際、最初こそLewis Hamiltonとキャスターは言います。けれどもその後はthe 33-year-oldやthe British driverあるいはthe Mercedes driverと、どんどん言い換えるのですね。つまり、ハミルトン選手のことを知らなければ、これらが同一人物を指しているとすら認識できなくなるのです。

3つ目は、キャスターが通常のニュースよりテンションが高く、早口気味であることが挙げられます。通常のニュースは戦争や事件・事故など暗い話題が多いのに対して、スポーツニュースは楽しい話題です。よって、そのスピードについて行けなくなってしまうのです。こうした理由から私は長年、スポーツニュースがとにかく苦手で仕方ありませんでした。

ではどうすれば苦手分野を克服できるでしょうか?私の場合、2ステップを経てようやく最近、スポーツニュースの同時通訳が楽しいと思えるようになってきました。

一つ目は、スポーツ好きな人を見つけることです。周囲を見渡せば、「サッカーが好きな人」「テニスに詳しい人」「F1なら任せて」という具合に、実はたくさんいるのですよね。年齢は問いません。そうした方たちに教えを請うのです。自分でインターネットを使い調べようとしても出発点がそもそもわからずネットの深みにはまりがちですが、詳しい人に聞けばピンポイントで教えてもらえます。しかもその場でさらに疑問に思うことを新たに尋ねられるので、より理解が深まります。

克服方法2つ目。それは、基礎が理解できたら、実際に自分でその試合を観に行ったり、動画で観戦したりすることです。もちろん、どの競技もたくさんルールがあるので即理解できるわけではありません。けれども繰り返し観ているうちに何となく楽しめるようになります。私の場合、サッカーがまさにそうでしたね。選手たちの活躍ぶりを見たり、勝負の厳しさや感動を味わったりということが続くにつれて、「どうして私は今まで毛嫌い(!)していたのだろう?」と反省するようになったのです。

なぜ私が20年以上も放送通訳の仕事を続けてきたか改めて考えてみると、「未知を知ることの楽しさ」に尽きると思います。こうして新しいことを知るたびに自分の人生の扉がどんどん開かれる。そんな感覚を抱くことができるのです。

(2018年10月23日)

 

【今週の一冊】

「東京店構え マテウシュ・ウルバノヴィチ作品集」マテウシュ・ウルバノヴィチ著、サイドランチ編、エムディエヌコーポレーション、2018年

「通訳業に必要なのは体力!」と強く信じる私は、日頃から1日1万歩をめざすべくせっせと歩いています。歩数計のおかげでモチベーションも維持できており、ありがたい限りです。エスカレーターやエレベーターは極力使わず、都内であれば二駅分ぐらいは歩いてしまいます。わざわざ地下鉄駅に入り、地下まで潜る時間を考えると、地図を片手に歩いてしまった方が案外速いときもあるのですね。

歩く際に裏通りをあえて行くこともあります。意外なお店を発見したり、神社仏閣が潜んでいたり、歴史的建造物やその説明プレートに遭遇したりすることもあります。「へえ、こんなところにこのような名所があったとは!」とうれしい発見があれば、それだけで歩いて良かったと思えてきます。特に古きレトロ系の建物が見つかると、つい立ち止まって眺めたくなります。

今回このコーナーで取り上げるのは、そのような東京の歴史を感じさせる建物を紹介する一冊です。テーマは「お店」。個人が経営する小さなお店、しかも表から見ればどのお店もそれぞれの個性が醸し出されているものが取り上げられています。著者はポーランド出身のイラストレーター、マテウシュ・ウルバノヴィチさんです。

本書をめくるとすべてカラーで掲載されており、屋根から壁、屋号の看板にいたるまで、ディテールが丁寧かつ繊細に描かれています。都内の地図も示されており、どのお店がどこにあるのかもわかります。山手線内だけでなく、中央線沿線のお店もあります。

中でも私が注目したのは、千代田区麹町にある「精肉大田屋」というお店です。私はイギリスに留学前、半蔵門にあったオックスフォード大学日本事務所に勤めていました。取引先の銀行がこの精肉店の近くにあり、前をよく通っていたのです。道路の角にあり、ビジネス街にありながら生のお肉が売っているということで、いつも興味深く思っていました。その後、BBC勤務を経て帰国してからは、このお店の並びにある通訳学校で教え始めたのですが、やはり大田屋の前を通っては授業に向かっていたのです。一度も店内に入ったことはないのですが、昭和の香りのするこのお店はいつも私を温かい気持ちにさせてくれていたのでした。

大田屋は閉店してしまい、今は建物だけが残されています。周囲がどんどん再開発されて新しいビルになる様子を見るにつけ、この大田屋の跡もいずれはそのような運命になるのかもしれません。けれども、こうして絵画という形で描いてくれた著者は、私たち読者に個々の建物とそれに付随する思い出を残してくれています。

東京のレトロ店舗は数こそ少なくなったものの、まだ健在なお店もあります。本書を片手に読者の方が少しでもそうしたお店を応援してくれればと思います。

 

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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