INTERPRETATION

第459回 学生が気づかせてくれたこと

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

大学に通っていたころ、私はアルバイト三昧の生活を送っていました。何しろ当時の私と言えば、第一志望が不合格。入った大学・学科は第三志望だったのです。しかも授業の出欠は厳しく、その一方で私は授業内容に関心を抱けず、やる気が大いに下がった状態でした。よってバイトに逃げていたのですね。

アルバイトは多岐にわたりました。ハンバーガーショップ店員、家庭教師、デパートの販売職、単発のイベント販売員、棚卸などです。単発業務はバイト代が良いからという理由だけで、お台場の更に先の倉庫にマイクロバスで連れていかれ(?)、一日中ひたすらネジ数えをやったこともあります。どれも私にとっては貴重な経験でした。

一方、唯一経験がなかったのが「塾講師」でした。当時の私は「人前で立って教える仕事」など怖くてとてもできなかったのです。中学・高校時代はもちろんのこと、大学に入ってからも教室の前に立って発表をするとか、グループワークで司会役を務めるなどは「一番避けたいもの」だったのですね。よって、塾の先生は選択肢の範囲外でした。

それが、どういう巡り合わせか教える仕事に携わるようになったわけですから、人生というのは面白いものです。ただ、いかんせん、私の場合は講師歴ゼロからのスタートでしたので、どういう風に教えるかは手探り状態でした。現に今なお、試行錯誤は続いています。

講師デビュー直後は、指導法と名の付く本をずいぶん読みました。教え方に関するセミナーに出かけたこともあります。教えることが上手な人に尋ねたことも少なくありません。そうしたハウツーを自分なりにインプットして、教室で実践することを続けていきました。

ただ、私なりに分かったことがあります。それは、「そのような方法」は「その人(あるいはその著者)の環境下では最適であった」ということなのですね。つまり、そのメソッドが万人への正解ではないということになります。私には私の学生たちがいて、その境遇もさまざまです。ゆえに、素晴らしいと思しき指導術を私が実践したとて、それがホームランになるとは限らないのです。

今でも忘れられない出来事があります。

指導を始めて数年目、当時はまだ私自身、教え方が一定しておらず、常に授業後は不完全燃焼でした。「あそこはこうやって教えれば良かったのではないか?」「もっとこれこれすべきではなかったか?」と、反省ばかりの日々だったのです。

そのクラスには、とある学生がいました。とても大人しい子で目立たず、グループ活動をしても声は小さく、英語の実力においても課題を抱えていました。「どのようにしてその子を他の学生同様、積極的に授業に関わらせたら良いか」を当時の私は悩んでいました。

ある日、私は事前課題として、某テーマについて学生たちに4コママンガを描かせました。「下手で全く構わないから、とにかく4コママンガを作成する。それをグループ内で見せながら、30秒で説明する」という課題です。

そして翌週。

その学生が、それはそれは素晴らしい4コママンガを完成させて授業にやってきたのです。他の学生たちは感嘆の声をあげました。私が見てもそれはプロの作品さながらの出来栄えでした。皆がその学生のマンガを見るや、驚嘆の声をあげ、「すごいすごい!!!!」と教室内は感激の嵐となったのです。その学生は、少し恥ずかしそうにしながらも、自作について30秒スピーチをやってくれました。

以降、その学生は少しずつ変わっていきました。

授業前には一番乗りで教室入りするようになりました。また、以前は授業が終わってもそっと退室していたのが、私のいる教卓まで来てあれこれ話してくれるようになったのです。内容はたわいのない世間話ではあったのですが、あれほど大人しかった子がここまで私に心を開いてくれるようになったことが、私には本当に幸せでした。

この時、私の指導方針は固まりました。

「どんな学生であっても、必ず、絶対、良い部分は持っている。」
「それがたとえ小さな目立たないものであったとしても、目を皿にして発見して引き出すのが教師の役目なのだ。」

こう考えたのですね。

教師というのは、学生の代わりに勉強をしてあげることはできません。唯一可能なのは、学生のやる気を引き出し、応援することだけです。そのためにも必要なのは人間同士の信頼関係です。どれほど私が素晴らしい指導法で教えたとしても、私のことを人間として学生たちが信じてくれなければ、動いてはもらえないと思うのです。

一方、子どもの頃に私が海外の小学校で経験したことで、今でも悲しい記憶があります。それは教師による態度の違いでした。その先生は自身の価値観に沿う生徒を可愛がっていたのです。私は英語力が無かったこともあり、その先生とうまくコミュニケーションをとることがそもそもできていませんでした。しかも、その科目は私の苦手科目。今にして思えば、先生と私の相性の問題に過ぎなかったのでしょうけれども、私にしてみれば「態度が異なる先生」でしたので、最後の最後まで尊敬できませんでした。ただ、「悪い先生」ではありませんでしたので、クラスメートにその話をしても、「え?○○先生?良い先生だと思うよ」と一蹴されてしまったのですね。

こうした実体験があったがゆえになおさら、「学生の良い部分探し」に私はこだわっているのかもしれません。

これは教師・生徒関係にとどまらず、上司・部下や親子でも言えることだと思います。

「4コママンガ課題」でそのことに気づかせてくれた学生には今でも深く感謝しています。

(2020年9月8日)

【今週の一冊】

「漢字幸せ読本」ひすいこたろう&はるねむ著、KKベストセラーズ、2007年

英語の勉強を続けていくにつれて、ことば全般に興味が出てきました。通訳者になりかけたころのことです。以来、活字のフォントであれ、漢字そのものであれ、耳から入る表現であれ、ことばにまつわるものであれば、色々と調べるようにしています。

今回ご紹介するのは、漢字をテーマにした一冊です。漢字辞典を引けば、確かにそれぞれの漢字の成り立ちはわかりますよね。でも本書は少し見方を変えて漢字をとらえたもの。たとえば「愛」であれば、これは「心を受け入れる」と分解できる、という具合。

以下、なるほどと思わされた字をご紹介しましょう。
*「想う」=「相手のことを心から想う」
*「一緒」=「一つの糸でつながっている者」
*「幸せ」のベースにあるのが「辛い」。一方、「辛い」=「プラス(十)の上に立っている」ので、「辛いから、幸せになれる」

このような具合です。人生訓的な部分もあり、本来の語源が何であるかはさておき、こうして自分なりに解釈できるような説明も楽しいものです。

本書の中で著者のひすい氏は、心理学博士・小林正親氏による教えも紹介しています。小林氏によると、たとえば弁護士が必要になった場合、友人10人に電話をしてみるのが良いのだと。「良い友人を持っている人には良い弁護士が紹介される」と綴っています。また、小林氏の言葉も本書には引用されていました:

「結局は、どれほど良い友人を持っているか、ということ。それには自分の日常生活が大きくかかわってきます。目の前のすべての人を大事にし、誠実に生きることは、生き方の王道です。一度約束をしたことは絶対に守る。できそうもないことは引き受けない。(中略)そのように生きていれば、自然に良い友人たちに囲まれることになります」(p136)

小林氏によれば「運命」とは「運ばれてくる命」であり、その運命というのは「人によって運ばれる」のだそうです。

漢字から元気をもらえる、そんな一冊です。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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