INTERPRETATION

第460回 揺さぶりに負けないで

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

自分なりの決断をした上で、新しいことを始めようとしたときというのは、大きなエネルギーがいりますよね。時間的・物理的に心をそこへ注ぐのはもちろんのこと、慣れないことであれば、なおさら自分の心身をそちらへ集中させることになります。

今までの体力・気力だけでは追い付かないこともあるでしょう。

そのようなときに周囲が自分を支えてくれると、それが自分にとって莫大なパワーとなります。「肉体的にはクタクタだけど、応援していただけている」というだけで、踏ん張る力が出てきます。

その一方で、がんばろうと一歩踏み出すや否や、「昔の私」へ引き戻そうとする力がどこともなく現れることもあります。

「そんなことして、本当に良いの?」
「もっと冷静になって考えたら?まだ時間はあるから。前の方が絶対良いよ」

このような感じです。

私自身、経験があります。

考えに考え抜いた結果、「自分はこちらの方向へ進もう」と大いなる決断と共に歩み出したときのこと。その途端、ものすごいパワーで元へ戻そうとする力を浴びたのですね。それもたったひとりからだけではありません。複数が束になってくる、という感じでした。

「その人たちにこそ、私のことを応援してほしいのに」

という状況であればあるほど、心は葛藤します。「自分はもう決意した。揺らぐまい」と自分に誓ったにも関わらず、そうした言動を先方からとられることで、加速ギアから急きょリバース・ギアに戻すべきか悩んでしまうのです。

「自分が揺さぶり・揺り戻しに負けずにいけるかどうか」は、今後の自分の人生を左右すると私は思います。

ちなみに「揺さぶりをかけてくる人」は、おおむね以下のような理由を挙げてきます:

1.あなたの基準は間違っている
2.あなたはそれで良いけれど、周囲のことを考えたの?
3.世間一般では○○が正解。それが世の中の常識。ゆえにあなたの考えはおかしい
4.確率統計的に見ても、あなたの考えは少数派
5.○○というのは△△であるべき。それが宿命。運命。だからあなたもそうしなければいけない
6.今なら引き返せる。修正できる。だからあなたは早まった決断を下してはならない

このような感じです。

これを繰り返し繰り返し面と向かって言われ続けると、どれほど固く決断した自分でも、心は揺らぎます。

「やっぱり相手が言う方が正しいかも」
「私のやり方は世間的に見て非常識だったかな」

このような思いが罪悪感と共に出てきてしまうのです。そして非常に辛くなり、自分の決意をすべて覆すべきかと苦悶するようになります。

そこで諦めて、先方の言う通りにしたらどうなるか?

「揺り戻し係(?)さん」は安堵するでしょう。

「ほれ見た事か、そうしていとも容易に覆したってことは、実はあなた自身、元に戻ったって大丈夫ってことでしょ?」

このように相手は思うようになるのですね。

その一方、「ふりだしに戻してしまった自分」はと言うと、その時点で相手側の「揺り戻しコール」が無くなりますからホッとします。「やれやれ、これでエンドレスに忠告されることもなくなる」と一息つけます。

でも、このままで良いのでしょうか?

人は他の誰でもない、自分の人生を生きています。
自分の人生を自分で生きるしかありません。忠告してきた人たちが、私の代わりに私の人生のかじ取りをしてくれるわけではないのです。

だからこそ、自分が本当に決意し、気持ちが固まっているのであれば、それを進めても良い、というのが私の考えです。

私はフリーランス通訳者になろうとしていたときに上記を経験しました。それ以外の人生の節目でも、同様の状況に直面したことがあります。

今、自分の進路を真剣に考えておられる通訳者のひよこのみなさんにとって、この文章が少しでもお役に立てれば幸いです。

(2020年9月15日)

【今週の一冊】

「わたし84歳、今がいちばん幸せです!」広瀬尚子著、KKロングセラーズ、2019年

本との出会い。これほど面白いものはありません。もっとも、人との出会いも同様でしょう。仕事やプライベートを通じて「たまたま」知り合った方と意気投合して生涯の友人になることもあります。あるいは、ご無沙汰していた旧友と思いがけない場所でバッタリ再会という状況も考えられるでしょう。人生というのは出会いとご縁の連続なのでしょうね。

今回ご紹介する一冊は84歳の女性がお書きになった一冊。その日、私はたまたまとあることを考えながら本屋さんに入りました。そのとき真っ先に目に飛び込んできたのがこの本だったのです。「これもご縁に違いない」と思って買ったところ、大いに励まされました。

著者の広瀬尚子さんは1935年生まれ。短大卒業後に結婚し、お子さんたちを育てるも44歳の時に離婚されます。そこからのパワーは目をみはるばかり。軽井沢に家を買い求めてカフェをオープンしたり、病にもめげず、新たな人生を歩むべくカフェを畳んで東京に戻られたり、という具合です。そして80歳で「ピースボート」に参加され、そこで現在のご主人と巡り合い、再婚されたのでした。旦那様は8歳年下です。

本書には再婚までのエピソードを始め、これまでの人生を振り返るお話がたくさん載っています。傍から見れば大変な人生だと思うのですが、文章からにじみ出るのは広瀬さんの明るいお人柄と前向きな姿勢ばかりです。読み進めるうちにどんどん元気が出てきます。

広瀬さんはお若いころ、世間体や常識ばかりを気にしてしまい、自分らしく生きることができなかったと綴ります。けれども44歳を機に考えを変えていかれたのですね。

「『過去の後悔』と『未来の心配』はとうに卒業してしまった」(p70)
「いくら若作りをして綺麗にお化粧しても、いつも人の目や世間体を気にして周りに合わせることばかりしていたり、自分のポリシーもなく生きていたら心の中は老婆」(p89)
「堂々としていればいいんですよ」(p92)

などの文章は、どの年齢層の方が読んでも励まされるばかりです。

一方、子育てに邁進していたころを振り返りながら、広瀬さんはこう述べています:

「女らしく、母親らしく、年相応に、人から後ろ指差されないよう、白い目で見られないよう、常識から、はみださない生き方が最上のものと考えている間は胸呼吸状態。本気で生きているとは言えません。」(p177)

世の中が多様化した今、「これだけが絶対的正解」というものはなくなりつつあります。通訳の際の訳語にバリエーションがあるように、人の生き方にも様々な価値観があるのですよね。そのことに気づかされた一冊でした。

Written by

記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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