INTERPRETATION

第462回 幸せのためにもやりすごす

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

最近でこそ母との間は穏やかな日々が続いているのですが、大変な時期は実に私自身、試行錯誤状態でした。若いころの私は「自分こそが母の苦しみを軽減できる」「その見返り(?)として、私のことに本当に向き合ってもらえるようになる」と思っていたのですね。要は共依存だったのでしょう。

結婚するまでの私は、「母とは何でも話し合える」と信じていました。よって、母が何か意見を言えば、それに対して私の考えを述べる。そうした言葉のキャッチボールができると信じていたのです。

もちろん、それでうまく話が進んだこともあれば、対立したときもありました。でも、意見の相違があっても、世間でいうところの「一卵性母娘」でしたので、自然とまた元通りになっていたのですね。

ただ、結婚してから状況が変わりました。私に新たな価値観が芽生えたのです。

「どうも母の言う考えは少し違うのではないか」と思い始めて以来、少しずつ私なりの価値観や本音を披露するようになりました。でも、母にしてみれば「娘は変わってしまった」と映ってしまったのですね。

それが積もりに積もってしまい、ずいぶん厳しい時期が続きました。その間の私は幼い子どもたちを育てている最中でした。随分と子どもたちにしわ寄せが行ったのも否めません。

状況が変わったのは本当に最近のことです。母の意見を良い意味で「聞き流す」術を身に付けたのです。

聞き流す、というと印象悪く聞こえますが、要は我が家の場合、母は自分の意見を純粋に「聞いてもらいたい」のであり、「否定されたくない」というのが実はホンネだったのですね。

よって、母が話しているときは、目を見て真摯に頷きながら聞くことを心がけるようにしました。

もちろん、母は「これまで通り娘には意見を聞いてもらいたい、娘にその価値観を共有してもらいたい、できれば娘にその通りに動いてもらいたい」という気持ちを強く抱いていると思います。

ただ、私には私の価値観や事情があります。すんなり受け入れがたいこともあるのですよね。では、どのようにしたか?非常にシンプルな方法を思いつきました。

「なるほど、そういう考えもあるのね。勉強になったわ!」

これだけです。ここで私は一言も「はい、わかりました。母の言う通りにします。その価値観を受け入れます」とは言っていません。私には私の考えがあります。それは私の胸の内に秘めておけば良いのです。

これにはさらに続きがあります。「勉強になったわ」と伝えて母の笑顔を見た直後にお手洗いに行き、用を済ませて流します。そのときに自分が母とのやりとりで抱いたモヤモヤも「一緒に」流してしまうのです。「ご意見頂戴しました!勉強になりました!さようなら!」と言って流すのです。以前であれば心に引っ掛かり、悩みのスパイラルに陥っていた私ですが、この方法で切り替えができるようになりました。

自分の意見、価値観は自分で持っていて良いのです。母と異なるからと言って、自分が悪者になる必要は無いのです。

そのことに遅まきながら私は気づきました。幸せのためにもやりすごすこと。それが自分を大切にすることにつながります。そうすることで初めて、人間関係は家族であれ他者であれうまくいくようになる、と実感しつつあります。

(2020年10月6日)

【今週の一冊】

「総理通訳の外国語勉強法」中川浩一著、講談社現代新書、2020年

通訳者が書いた本というのは、あるようであまり見受けないように思います。そうした中、外務省でアラビア語の通訳に従事しておられる中川氏の本は、非常に読みごたえがありました。

今、ネットで「英語学習法」と調べると沢山出てきます。ちなみに今、この原稿を書くにあたりグーグルで検索したところ、7千万件もヒットしました。これだけ山のようにあると、どの方法を自分は選ぶべきか悩みますよね。

でも、本書を読むと、語学学習というのは実はオーソドックスであることが分かります。失敗を恐れずにどんどん声を出すこと、自分で単語リストを作ること、興味のあるものを教材に選ぶこと、期限を決めて集中すること、などなどです。そのようなことをわかりやすく中川氏は説明されています。

中でも私が励まされたのが、語学学習は「毎日しなくても良い」「オンとオフをうまく使い分けましょう」というくだり。ついつい目標を立ててそこから逆算し、「毎日○○学習を△△時間は取り組む」という具合で自分を縛ってしまいますよね。でも語学の勉強は「長いマラソン」のようなもの。よって、自分で自分にプレッシャーをかけ過ぎて自滅するぐらいなら、もっと緩くても良いというのは、本当に共感できました。

一方、通訳者をめざす方にとって参考になるのが、一つの日本語から複数の英単語を連想するという方法です。言い換え表現がたくさんある方が、通訳をしているとき、単調にならずに済みます。これは私自身、放送通訳をする際に意識していることです。私の場合は英日が多いため、一つの英単語から複数の和訳を考えるようにしています。たとえばPresident Trump said … であれば、「トランプ大統領は○○と述べています」と訳せますよね。これを「語りました」「言及しました」「説明しています」「述べたところによると・・・」という具合に、バリエーションを考えてみるのです。同時通訳のさなかにこれだけ駆使するのは大変なのですが、頭のトレーニングにはなります。

本書には自作単語帳の活用法が写真で詳しく解説されています。アラビア語通訳の世界も覗くことができ、大いに楽しめた一冊でした。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学非常勤講師。 上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。 ロンドンのBBCワールド勤務を経て現在はCNNj、CBSイブニングニュースなどで放送通訳者として活躍中。 NHK「世界へ発信!ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説を担当。 ESAC(イーザック)英語学習アドバイザー資格制度マスター・アドバイザー。 通訳学校にて後進の指導にあたるほか、大学での英語学習アドバイザー経験も豊富。 著書に「通訳の仕事 始め方・稼ぎ方」(イカロス出版、2010年:共著)、「英検分野別ターゲット英検1級英作文問題」(旺文社、2014年:共著)。

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