INTERPRETATION

第468回 迷ったらまず行動

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

少しずつ日が短くなり、いよいよ冬の到来が感じられます。毎年この時期になると、かつて留学していたロンドン時代を私は思い出しています。

イギリスの新年度は9月。私が在籍した修士課程は9か月コースでした。資金的なこともあり、2年間の大学院コースは断念していたため、1年弱で修士号をとれるLSEは魅力的でした。

ところがいざ始まってみると、想像を絶する大変さでした。後にも先にもあれほど勉強したことは人生においてありません。大学入試の受験勉強がかわいく思えてしまうぐらい、ヘトヘトになりました。その理由の大半が、「英語で書かれた大量の文献を速読する」ということに慣れていなかったからだと言えます。

一方、「旅行者」ではなく「生活者兼学生」としての英国生活もなかなかチャレンジングでした。

観光の場合、多少不都合があっても「ま、数日後には帰国するのだし」と笑って流せます。けれどもただでさえ忙しい大学院に加えて、生活面でも色々な想定外の出来事があったのです。

たとえば銀行口座。

オリエンテーションやクラス開講など、9月はとにかく慌ただしい日々でした。合間を縫って銀行口座を開設したものの、数週間後に残高を見たら意味不明の引き落としがなされていたのです。日本では考えられません。

授業の合間に窓口へ駈け込んで申し立てると、「あら~、これは機械ミスね。直しとくわ~~~」というニュアンスでおしまい。日本のように「申し訳ございません」すらありませんでした。

スーパーではおつりを間違えられたり、自販機ではお札を入れたものの商品もおつりも出ず、お札も「飲み込まれて」しまったりなど、本当にビックリするようなことだらけでした。

そうしたオドロキと共存しつつ、大量の課題をこなす日々が続いていったのです。入寮当時は「わあ、フィッシュ・アンド・チップス、懐かしい!」「スポンジケーキにカスタードクリーム。小学校時代の現地校では給食定番だったなあ」と思っていましたが、1週間も経つと、「・・・またこのメニュー・・・」とため息交じりになったのでした。

そうこうしているうちに冬の日照時間がどんどん短くなり、気持ちも鬱々としてしまい、ヘルペスになるわ香港風邪で咳は止まらなくなるわと、心身ともに追い詰められていったのです。

年末年始に一時帰国して少し元気になったのも束の間、イースターの声が聞こえ始めるころになると、今度は修士論文と卒業試験が目の前に迫ってきました。大量の文章を書くなど日本の大学で取り組んだことはありませんでしたし、一科目3時間の卒業試験など、考えただけで卒倒しそうです。頭の中は「どうしよう?どうしよう?」という気持ちでいっぱいになりました。

そうした中、私はある行動に出ます。それは「退寮して一人暮らしを始める」というものでした。

当初の計画では卒業まで寮にいるつもりでした。予算もそう組んでいました。けれどもルーティンな食事を始めとする寮の環境に疲労困憊してしまったのです。これを脱するには「自分から寮を離れる以外ない」と思い、実行に移したのでした。

しかしいざアパートを探し始めたものの、そう簡単に見つかるわけではありません。そもそも自分の貯金がどんどんと目減りする中での部屋探しです。しかも「寮からキャンパスまで徒歩20分」という条件と同様のアパートをロンドン中心部で見つけるのは至難の業。これは感覚的に言うと「港区で大学から徒歩数分の格安マンションを探す」のと同じぐらい大変なことなのですね。

それでもあきらめず探し続けたところ、偶然にも寮からそう遠くない物件が見つかりました。私には広すぎる2LDKで、正直なところ、予算オーバーではあります。けれども卒業までの数か月と割り切り、借りることにしました。決め手となったのは、家主さんの代理人が非常に親切な方で、しかも家主さんは大学教授であるという点でした。確か北米の大学教授で、セカンドハウスとしてその部屋を所有されていたそうです。

日々の課題に追われる中、寮を引き払い、徒歩で荷物を何度も往復しながら引越は完了しました。このときが私にとり、人生初の一人暮らしでした。自分のペースで寝起きして食事をとり、勉強をするということ。これがかくも私に心の安寧をもたらしてくれるとは思ってもいませんでした。それぐらい私は寮生活で煮詰まっていたのでしょう。

新しい環境に身を置くということ。それには労力を伴いますし、肉体的疲労にも見舞われます。でもその一方で、新たな光景、新たな空気、新たな人生への期待も高まります。ゼロからのやり直しは大変ではあるものの、その一方で、自分がどこまで再挑戦できるかの舞台ともなりうるのです。

「論文」と「一発勝負の学年末試験」で卒業が決まるという過酷な大学院生活でしたが、あのとき、思い切って自らの環境を劇的に変えたことが、私を奮い立たせたのだと思います。

以来、「迷ったら、まずは行動してみること」が私の中では大きな指針となっています。

(2020年11月17日)

【今週の一冊】

「子どもを信じること」田中茂樹、大隅書店、2011年

以前、子育てに悩んでいたころ、図書館から借りてきた本です。自分なりに理解して、本の中に書かれていたことを実践したつもりでした。けれども子育てというのは、自分一人だけの問題ではないのですよね。親に感情があるように、子どもにも子どもなりのキモチがある。一方、仕事や私自身の人間関係であれば、私本人が頑張れば何とかなります。でも、そうではないからこそ、親は悩み、子どもも悩み、お互いに理解し合いたいのだと思います。

冒頭に書かれていること。それは「不登校」の我が子にどう接するか、という事例でした。世の中は「不登校=良くないこと」いう図式がややもするとあります。でも著者の田中先生は、不登校を選んだということ自体、その子には勇気があるのだそうです。非常に納得がいきました。

読んでからすでに数年が経つ中、改めて本書をひもとき、田中先生の易しいお人柄から多くの勇気が与えられました。巻末に出ている「アイスクリーム療法」もユニーク。興味がある方はぜひ手に取ってみてくださいね。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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