INTERPRETATION

第511回 いつまで保管?

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

仕事で使った資料や単語リストなど、いつまで保管するか迷いますよね。かつてBBCで働いていたころ、私はテーマ別に単語リストや資料集を作り、ファイリングしていました。ファイリング、とは言ってもさほど大それたものではありません。A4の裏紙に単語を書いたり、新聞の切り抜きを貼り付けたりして、それをマニラフォルダーに挟み込んでいたのです。フォルダーにはタブがついていましたので、そこに「アメリカ」「イギリス」「医療」という具合にラベリングしていったのですね。

勉強が進むにつれて、資料はどんどん増えていきました。自分の学習の痕跡として「見える化」できるのは嬉しいものでした。放送通訳者としては未経験の中、採用していただいたので、とにかく先輩方に追いつこうと必死だったのです。こうして自分のロッカーは資料が次第にたまっていったのでした。

しかし、それが増えるにつれて別の問題が出てきました。スペースが不足してきたのはもちろんなのですが、ファイリングが難しくなっていったのです。たとえば「アメリカ選挙」という新しいフォルダを作ったのは良いのですが、その中で法律関連のものが出てくると、別の「アメリカ法律」というフォルダに入れるべきか迷ったのですね。

そうこうしているうちにフォルダは肥大化していき、ためる一方で活用できなくなっていきました。

そこである日のこと。意を決して「全捨て」をしたのです。

処分するには勇気がいりました。でも、参照すらできないほど増えるばかりでは意味がないと思ったのですね。「自分の頭の中に残っていなければ、それはそれで仕方ない。そのようなときはまた調べ直そう」と思いました。

あれから20年。

帰国時に色々と処分したはずが、やがてまた膨張していきました。そして数か月前に引っ越した際、最小限のものを維持して、あとは手放しました。大分荷物が減りました。過去の仕事は過去のものであり、頭の中に単語や知識が入っていなければ、資料をひっくり返して探すよりも調べ直した方が早くなります。そう思って今もなるべくため込まないようにしています。

ちなみにもう一つやめたことがあります。それは「5年日記」です。かつては備忘録もかねてせっせと書いていたのですが、こちらもやめることにしました。理由は、「書かねば」という強迫観念(?)が煩わしかったことが一つ。もう一点は、5年日記というのは「書くたびに過去の同月同日を振り返るもの」であり、どうしても昔に引き戻されてしまうのが私の性には合わないと最近思えてきたからです。

楽しい思い出だけがあれば、それはそれで良いでしょう。でも、中には辛いこともあります。そうしたことがよみがえってしまうばかりでは前に進めないのです。

何をどう頑張っても、人は「今」と「未来」しか生きられません。楽しい思い出であれば、文字や写真にしなくても、心の中に残っていてくれるはずです。

いつまで保管するか?

この基準は人それぞれでしょう。でも私は目の前のことに真剣になりたい。だからこそ、過去の仕事の資料や過去の日記に引きずられずに生きていきたいと思っています。

(2021年10月12日)

【今週の一冊】

「世界の美しい教会」PIE BOOKS編、パイインターナショナル発行、2016年

パイインターナショナルは建築などのシリーズで有名な出版社です。以前、「世界の美しい図書館」という写真集を読んで感銘を受け、以来、注目している会社です。

今回ご紹介するのは世界各地にある美しい教会を一冊に収めたもの。荘厳な昔風の建物もあれば、一見、普通のオフィスビルのような現代風の教会もあります。日本からは文京区にある東京カテドラル関口教会が紹介されていました。こちらは日本を代表する建築家・丹下健三氏のデザインです。巨大な8面のコンクリート壁が特徴的です。

個人的に興味を抱いているのが、ロシア各地にある教会です。ロシアの場合、同じキリスト教でもロシア正教という宗派になります。本書に出ているロシア・キジ島のプレオブラジェンスカヤ聖堂は木造で、キノコの傘のような形(クーポラというそうです)が特徴。1714年から建っており、釘が一切使われていない建物です。

コロナが収まり、また旅に出られるようになったら、このようにテーマを決めて教会巡りをするのも楽しいでしょうね。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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