INTERPRETATION

第532回 ヨコの存在感

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

通訳現場では一人で稼働するか、2名以上の複数で対応するかのどちらかです。会議時間が少ない商談通訳では、通訳者はたいてい1名で半日以内の通訳を行います(もっとも個人的には「通訳者が多い方が助かる~~~」と思ってしまいますが)。

一方、一日がかりのセミナー通訳や、複雑な業務内容の場合は数名の通訳者がチームとなっておこないます。朝から夕方までの国際会議では、疲労度も半端有りませんので、多い方が助かるのですよね。直前に大量の資料が手元に届いた際にも、数名いれば迅速に割り振りできます。自分が声を出していない時間帯は予習にあてたり、中座したりすることもできます。何しろ頭脳酷使労働ですので。適宜ブレイクをとらないと頭が物理的にパンパンになってしまうのです。

私は日ごろ放送通訳がメインです。よって、通常の会議通訳とは少し異なります。ブースに入るのは一人だけ。シフト時間はCNNの場合、3時間ほどですので、それを2名で組み、30分ずつで交代。よって、自分が同時通訳をしている間は何があってもブースを離れることができません。お手洗いに行きたくなってもガマン(新幹線運転手さんの気持ちもよーくわかります)、せき込んでも自分で何とかする(と言うより、そもそもせき込まないような話し方を工夫するのが先決)、訳語に詰まってもとにかく声を出す(テレビ業界では10秒以上の沈黙=放送事故)などなど、「一人で」切り抜ける必要があるのです。

そうしたワークスタイルに長年慣れているので、通常の会議通訳で悩むのが「メモ取り」。自分のためのノートテイキングではなく、パートナーのサポート面でのメモ取りです。ただ、このメモ取り、通訳者によっては色々な考え方があります。たとえば、以前ご一緒した先輩通訳者は、

「シバハラさん、今日はよろしくお願いしますね。ところでメモ取りだけど、私は自力で集中したいタイプなので、横でワサワサとメモを取っていただくと、かえって集中できなくなってしまうの。訳語は自分で責任を持つので、シバハラさんは横で休んでいただいて大丈夫だからね」

とおっしゃっていました。

実は私も放送通訳業界で「ワンオペ」に慣れていた分、この先輩の考えに非常に共感しました。

もちろん、通訳者がチームとなって最高のプロダクトをご提供するのは大切です。数字や固有名詞など、自力では拾いづらい単語をサポートし合えればどれほど心強いことでしょう。

ただ、サポートも諸刃の剣と私は思うのです。あまりにも横でガシガシ・ワサワサとメモを取られると、自分の視界にその様子が入り込みます。以前、とある現場で通訳をした際、通訳者は私一人だったのですが、スタッフの方が私の左隣に座っておられ、私の通訳内容をPCに文字おこし入力されていました。そのキーボードのカチカチ音と手の動きに私はとらわれてしまい、集中しづらい思いをしたことがあるのです。苦肉の策として私は自分の手のひらを顔の左手に置き、肘をついた状態で訳出したのでした。

同時通訳というのは、実はそれぐらいの集中力が求められます。私自身は「いつ、いかなる現場でも、悪条件下でも臨機応変に通訳できること」が理想です。でも実際問題、集中するというのは想像以上のエネルギーを使うのですね。

先のパートナー同士のメモ取りに関しては、業務前にどのようにするかをあらかじめ話せる雰囲気があると助かりますよね。一方、クライアントさん側の現場作業についても、通訳者のココロをご理解がいただけると本当にありがたいです。何かと「ヨコの存在感」が気になる職業ですので・・・。

(2022年3月15日)

【今週の一冊】

休むことも生きること 頑張る人ほど気をつけたい12の『うつフラグ』」丸岡いずみ著、幻冬舎、2017年

著者の丸岡さんは日本テレビの元記者兼キャスター。仕事に真摯に取り組んでこられた丸岡さんがうつ病を発症し、いかに切り抜けたかが本書には綴られています。非常に読みごたえのある一冊でした。

中でも丸岡さんが繰り返し述べておられるのが、うつ病は「脳の病気」であるという点です。世間では「心の病」という印象でとらえられていますが、「脳」の病であるからこそ、薬を正しく服用するのが大切と説きます。

本書には丸岡さん自身がうつ病と診断されるまでに心身に表れた複数の危険兆候が紹介されています。丸岡さんはそれを「フラグ(危険信号)」と名付けています。それぞれの兆しをきちんととらえて早めに対処していれば、もっと早期に回復できたのですね。

丸岡さん同様、私も仕事が大好きで、非常に緊張感の求められる現場に身を置いています。アドレナリンが異常に高くなりますので、疲れていても何とかなってしまいます。しかし、丸岡さん自身、うつをこじらせた要因の一つに「仕事大好き人間」であったと自覚なさっています。つまり注意が必要でもあるのです。「ゲームをクリアするように仕事をしていて」(p163)、「走り続けた結果、脳の伝達物質が足りなくなってうつ病に」(p168)なったと分析されています。

身体が言うことを聞かなくなる前に助けを求めること、そして適切な薬を服用することで、うつは最悪の事態を防げるとあります。また、身近な人のサポートもとても大切です。丸岡さんは「両親の対応が冷静だった」(p154)と感謝の気持ちも述べておられます。寄り添ってくれる家族がいれば、本人も心強いことでしょう。

コロナや世界情勢など、何かと心がふさぎがちになる昨今です。うつに対する正しい知識を得るためにも、励みになる一冊です。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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