INTERPRETATION

第534回 目の前に広がる道を見ながら

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

先日のこと。仕事の合間に行き着けのカフェへ。そのお店はオフィスビルの一角にあります。ロビーのところに何やら沢山の人たちが。年齢層は若め。「え?もう就職活動解禁?」と思ってふと気づきました。日付は4月1日。そう、入社式の日だったのです。

私が大学を終えて会社に晴れて入ったときから、多くの年月が過ぎました。しかも今はフリーランスの身。「新入社員、もうすぐ入って来るね」という会話もしない日々ですので、すっかりそのような季節行事が頭から欠落していたのでした。

当事者でなくなると、色々とわからなくなったり忘れてしまったりするものです。たとえば子育て中の親であれば、自分の子と同じ月齢や年齢の子を見分けることができます。赤ちゃんであれば「首が座っている」「体がムチムチしている」「歯が生えている」という兆しでわかるのですね。10代の子であれば「スポーツシューズを履いているから、地元の公立中学生かな」「持っているテキストからして高3受験生かも」と類推できるのです。当事者こそわかる事柄ですが、そこから離れてしまうと想像しづらくなります。

さて、この「当事者」ということば。毎日がハッピーで順風満帆に生きていられるときはあまり思い浮かびません。しかし、何か大変なことに直面すると、その苦しみや悩みの「当事者」であることをひしひしと感じます。「なぜこんな経験をしないといけないの?」「周りの人たちは悩みが無さそうで良いな」という具合に、自らの置かれた境遇を嘆き、他者と比べてはみじめに思えてきます。

そうした状況に遭遇した時、人はどう反応するのでしょうか?私は以下の3つが主に挙げられると思います。

1つ目は「とことんその苦悩と向き合う」という方法。自分の悩みについて書かれた本を読んだり、しかるべき場所で相談したりします。もがきつつも「とにかくここから脱したい」という思いが原動力となるのです。自分の苦しみの克服法を編み出すことが、ある種の「自己課題」となり、試行錯誤しつつも「とにかく動く」ケースです。

しかし、しんどさがとてつもなく大きいと、行動することすら難しくなります。このハイキャリアでも連載しておられる寺田真理子さんは、非常に辛いさなかの時期、起き上がることもままならなかったと自著で記しておられます(「心と体がラクになる読書セラピー」ディスカヴァー発行、2021年)。私も経験がありますが、本人はとにかく疲労困憊状態。「このまま自分はどうなってしまうのだろう」という不安に押しつぶされそうになります。一方、寺田さんは「読書」を機に再び歩み始めています。人はこういう時、それぞれのペースとタイミングで何かをきっかけにして、また立ち上がれるのだと思います。

3点目は、「あえて苦しみを直視しない方法」です。人は自分の想像を上回るショックを受けると、衝撃状態を通り越して、そのことを「無かったこと」にします。これは自分の心を守るための一種の防御反応。考えたり味わったりしてしまえば、自分の心が壊れてしまうからです。だからこそ「無かったこと」にさえしておけば、日常生活を続けていけます。少なくとも目の前のこと、自身の心の安寧、人間関係、仕事、学業などを維持することはできるのです。

新年度が始まりました。組織に属している人も私のようなフリーの人間も、この時期は新たな旅立ちと出会いがあります。しかしその一方で、思いもよらない出来事に遭遇するかもしれません。そのようなとき、自分がどのように自分自身と向き合うかが問われることになります。上記3つの反応も、どれが絶対的に正しいとは言えません。なぜならその人その人のタイミングがあり、心の状態があるからです。

ただ、一つだけ言えること。それは「自分の心としっかり向き合うことを大切にしたい」という点です。どうかみなさまも、明るい季節の到来とともに、自身を大事にして、目の前に広がっていく道のりを幸せに歩まれますように。

(2022年4月5日)

【今週の一冊】

「かえるの哲学」アーノルド・ローベル著、三木卓訳、ブルーシープ発行、2021年

アーノルド・ローベルはアメリカの絵本作家。実際の作品を読んだことは無くても、この絵に見覚えのある方も多いのではないでしょうか?私はローベルの「こぶたくん」シリーズを愛読していました。

今回ご紹介する一冊は、立川で開催されていた「どうぶつかいぎ展」のミュージアムショップで買い求めたもの。タイトルに「哲学」とあるので、手に取ってみたのです。英語タイトルは”The Philosophy of Frog and Toad”。邦訳での登場人物は「かえるくん」「がまくん」となっています。

一見普通のお話に思えるのですが、短い文章ながら、多くのことを考えさせられる名言が並びます。中でも心に響いたのが、
“Toad sat and did nothing.  Frog sat with him.”
です。仲良しの二人。もしかしたらがまくんは悩んでいたのかもしれません。でもそのとき、かえるくんは何も言わず、ただ隣に寄り添っていました。そこに二人の友情と信頼、思いやりを感じました。

一方、かえるくん宅を訪ねたがまくん。扉には「一人にして」というメモが貼られています。自分は友だちなのに、なぜかえるくんは一人になりたがるのか心配するがまくんの表情が印象的でした。

絵本の主人公たちが、私たちに大切なことを伝えてくれる。そんな一冊です。

Written by

記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

END