INTERPRETATION

第127回 「知らないまま」でもいい

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

ここ数年、小学校でも電子化が急速に進んでいます。私が子どものころと比べて最大の差は「通知表の電子化」です。かつては先生の手書きメッセージに身が引き締まったものでした。しかし、個人情報の管理や業務の簡素化など、色々な理由があるのでしょう。現在私が暮らす市でも通知表はパソコン打ちされたものとなりました。印刷済みのA4用紙がクリアフォルダに挿入され、それが児童に手渡されるのです。

電子教科書導入も着々とみられます。自治体によっては、児童にiPadを配るところもあるそうです。画面を拡大したり、知りたい情報をどんどん検索して知的好奇心を満たしたりと、電子化がもたらす無限の可能性には目を見張るばかりです。

けれども、「いつでも・どこでも・すぐに」学べるというスタンスだけがベストだと私は思いません。さんざん苦労してようやく見つけ出した回答は、調べ上げた私たちに大きな喜びと達成感をもたらします。

私は中学時代、洋楽に魅了され、お気に入りの曲の歌詞を書き取っていました。しかしそう簡単には分かりません。何度聞いても聞き取れない、まるで日本語の「空耳アワー」状態です。今のように歌詞専門サイトもありません。すべての文言を知るには、LPレコードを買って歌詞カードを見るか、ネイティブに尋ねるしかなかったのです。ALTなどまだおらず、外国人も少ない時代。街中を歩いていたら誰もがつい振り向いてしまう、そんな世の中でした。

結局、先の歌詞はまるで未解決事件のごとく、私の中で風化されていました。ところが先日家族でカラオケに出かけてその曲を歌った際、画面の歌詞でようやく解明したのです。長いこと心の中に潜んでいた疑問点が一気に解決し、「今日、カラオケに来てよかった!!」と心から思った瞬間でした。

すべてのことを「即時に」知る。それは生きるペースの速い現代において、必然なのかもしれません。ネットで検索さえすれば何かしらは分かります。無知である私たち人間が、技術を相手に挑んでいる様子にも思えるのです。「分からない状態」はまるでゲームの中の敵のようです。その都度「知ること」は、その相手を一つ一つ倒しているようにも見えます。次から次へと出てくる手ごわい相手に立ち向かっているのかもしれません。

けれども「知らないこと」を「知らないままにする」のも、一つの知恵だと私は思うのです。もちろん、通訳業務の場合、未知の部分をないがしろにして現場に臨むことは勉強不足に値します。ただ、そこまですべてを検索していったん吸収したとしても、慌ただしさは終わりません。ならば「未知の状態」を潔く認め、そっとさせておく生き方があっても良いと私は感じるのです。

学びの原動力のひとつに「飢餓状態」があります。あっさりと答えを得るよりも長い時間をかけ、紆余曲折を経て知る状況を意味します。分からない月日が長引くほど、私たちの好奇心も飢餓状態に陥ります。それが「知りたい」という気持ちをさらに募らせるのです。

物事を知る上で大事なのは、この「飢餓状態」と「知らないままにしておく」のバランスをうまくとることではないかと思います。

そろそろお盆休み。私はあえてネットから離れるつもりです。学ぶということについて、改めてじっくり考えようと思っています。みなさまもどうぞ実り多き休暇をお過ごしくださいね。

(2013年8月12日)

【今週の一冊】

「大事なことはすべて立川談志に教わった」 立川談慶著、KKベストセラーズ、2013年

教えるという仕事柄、人の話し方には興味ある。同業者の中には落語を参考に話術を磨く人もいる。私の父は落語好きで、私が留学や仕事で日本を離れていた頃、せっせと落語のCDを送ってくれた。ところが何となく食指が動かず、聞かずじまいだったのだ。「舞台で演じられるものは生で観るべし」という思いが私の中で潜在的にあったからであろう。

今回ご紹介するのは立川談志師匠のお弟子さんの立川談慶師匠。慶応大学を卒業後、ワコールでのサラリーマン生活を経て落語界に入ったという異色の経歴の持ち主だ。談慶師匠のことは恥ずかしながらまったく存じ上げなかった。たまたま地元の新聞が「夏休み親子落語教室」を主催したので子どもたちと参加したところ、指導してくださったのが談慶師匠だったのである。

プログラムは、師匠が「寿限無」を披露した後、ワンポイントで会場の子どもたちが実践するというもの。扇子を使っておそばを食べるしぐさや、首を右左に向けて登場人物たちの様子を使い分ける方法などを学んだ。

参加者の中には談慶師匠のファンもいて、写真撮影やサイン会など、実ににぎやかなイベントに。一方の私はと言えば、談慶師匠がどれほど売れっ子でいらっしゃるかも知らず、師匠を囲んでの昼食会の席では「どうしたらノドを傷めずに話せますか?」「台詞の覚え方の工夫は?」などなど、通訳者・英語講師として聞きたかったことを図々しくも(?)聞いたのである。

帰宅後、よくよく調べてみたら、テレビにラジオにと引っ張りだこの談慶師匠。しかも本書は落語家部門では第1位に輝いているとのこと。すぐに書店へ出向き買い求めたところ、大いに楽しめる内容だった。

本書には談志師匠が弟子にかけた数々の言葉が紹介されている。また、談慶師匠の人生観も説得力がある。努力すること、コツコツと続けること。これは通訳の世界も落語の世界も同じなのだ。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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