INTERPRETATION

第220回 欠乏も原動力

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

「通訳者=最先端技術についても詳しい」となぜか思われることが少なくありません。おそらく国際会議やビジネス通訳の場面では新技術や新製品が取り上げられることから、「通訳者もそうした分野に詳しい」という先入観を持たれるのかもしれませんね。

私はと言いますと、実は大の機械音痴で典型的な文系人間です。必要に迫られて車のバッテリー上がりに対処するぐらいはできるようになりましたが、我が家のケーブルテレビチューナーに至っては何が何だかわからず、完全に「ブラックボックス」と化しています。相変わらずガラケーを使っていますし、電子辞書の機能もすべて使いこなせるわけではありません。それでも何とか不自由を感じずに日常生活を営めているわけですので、そう考えると、様々な最先端技術というのは私にとっては特になくても何とかなるのではと感じる次第です。

一方、今の時代は本当に便利になりましたよね。スマートフォン1台さえあれば、日本の外にいても日本にいるのと同じ感覚で情報を得ることができます。いつでもどこでもすぐに欲しい情報を手にするというのは、紙媒体で育った私にとっては夢のような世界です。私は幼少期にアムステルダムで生活していたのですが、あまりにも日本語への飢えが強かったため、親がとっていた日経新聞や大人向け国語辞典などをめくっては、その「乾き」を満たしていました。当時船便で2か月遅れで月刊誌「りぼん」が届いていたのですが、こちらもはみ出し欄の細かい広告はもちろんのこと、プレゼント当選者の都道府県名・氏名まで目を通していました。考えてみたら、今もある意味では「活字」を追う生活ですので、その頃とさして変わりない状況なのかもしれません。

私が子どものころに経験したような「不足している状態」を今の時代に求めるのは不可能ですし、現実的ではありません。時代は常に進化するものであり、逆戻りすることはできないからです。しかし、「あえて便利な状態に自分を置かない」と意識することはできると思います。それを最近感じたことが我が家でありました。

我が家は子どもたちにゲームやスマートフォンを買い与えないまま、今日に至っています。幼いころは友達が持っているから自分もほしいと主張したこともありました。しかし、親としてはもう少し自分で分別が付けられるまでは何とか「電子機器なし」で過ごしてもらいたいという思いがあったのです。子どもたちの性格からしても、もし買い与えた場合どうなるかは容易に想像できました。

そのような体制を維持しつつ今に至るのですが、それが良かったのかの可否はともかく、子どもたちなりに工夫をする様子が見られるようになりました。

たとえば、どうしてもインターネットを使いたい場合、最近では地元の図書館のインターネットブースを活用しています。制限時間は最大30分、延長不可ですので、子どもたちも調べたい事柄を厳選し、ダラダラと使わないようにしていると語っていました。ちなみに図書館では30冊まで本の貸し出しできますので、こちらもカバンの重さと相談しながら借りているようです。

マンガに関しては特に禁止しておらず、本人たちもさほど強烈に読みたい欲求はないのですが、歯科医や眼科などの病院にはたくさん置いてあるため、読めることがうれしいのか定期健診にも嬉々として出かけています。

学校の課外授業や外出などの際にも、ネットの路線検索や地図機能などの代わりに、自宅に置いてある首都圏マップやJR月刊時刻表などをめくっては旅計画を味わっているようです。

「欠乏」というのは、豊かになった今の時代、ネガティブにとらえられることもあるでしょう。けれども何かが足りないということは決してマイナスではないと私は考えます。むしろそれを原動力にして自分で工夫をし、その過程を楽しみ、そこから得られた体験を喜びとして味わえることこそ、次につながるのではないかと思っています。

(2015年7月20日)

【今週の一冊】

「すべては今日から」児玉清著、新潮文庫、2015年

俳優・児玉清氏が亡くなってからはや4年。私は氏の作品をあまり見たことがないのだが、文筆家としての児玉氏の作品はこれまで何冊か読んできた。ミステリー小説を愛し、しかも翻訳本が出るまで待ちきれず、原作を英語でどんどん読み進める様子は、これまでの著書にも記されていた。

今回ご紹介する著書は平成24年に新潮社から出版されたものを少し改訂したもの。巻末にはご子息で俳優の北川大祐氏のあとがきと、作家・佐伯泰英氏の解説がある。

本書には児玉氏が俳優になったいきさつを始め、これまで読んできたたくさんの本の紹介が出ている。また、社会問題についても氏は自身の考えや価値観を抱いており、問題提起がなされている。世の中の理不尽さをやり過ごすのではなく、意見を述べるべき時ははっきりと言うという姿勢がにじみでている。考えてみたら、今の時代、理不尽にクレーマーと化すタイプか、あるいは「誰かがどこかで言ってくれるだろう」と思うばかりに何の行動も起こさないタイプの二つに分かれてしまっているように私は感じる。

今回とりわけ私にとって印象深かったのは、「俳優稼業のストレス解消法」というエッセイ。次の一文は通訳者に通じると思った。

「演技という実に曖昧模糊としたものと付き合う不確かさは、絶えず猛烈な後悔とストレスをもたらす」

「すべての失敗の原因は自分自身にある。言い訳は一切通用しない。すべて自分自身が悪いのだ。誰のせいにもできない。自分の力の至らなさを呪うしかない。」

私が携わる通訳の仕事も、「絶対的に正解な訳語」というのがあるわけではない。実に曖昧模糊の世界だ。本番がすべてという場において、ストレスは大きく、自らのパフォーマンスには常に後悔が付きまとう。さらにうまくいかなくても、その原因は他でもない自分自身であるのだ。

そうした厳しい条件ではあるが、それでもなお今の仕事を続けているというのは、やはり当の本人がそうした様々な要素を含めてその仕事を愛している以外の何物でもない。児玉氏が俳優の仕事を全うされたように、私も自分に与えられた仕事に誠意を持って取り組み続けたいと思う。

Written by

記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

END