INTERPRETATION

第246回 好みはひとによりけり

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

通訳の仕事をしていて常に考えることがあります。それは「どのような通訳が正しいか?」という問いです。これまで私たちは学校で「答えのある勉強」をしてきました。定期テストであれば「この答えを書くことで点がもらえる」というものですし、資格試験の4択問題なら答えの数もたいてい1つと決まっています。「解あり学習」に私たちはずいぶん親しんできました。

けれども人生を歩むにつれて、答えは必ずしも一つではないという場面に直面します。悩みが生じた際、Aという選択肢もあれば、Bという方法をとることもできます。どちらも本人にとっては正しくもあり、今一つのようにも思えてしまいます。Aをとったことで、排除した選択肢Bへの未練も残るでしょう。「ああしておけば良かった」「いや、これで良かったのだ」と心の中でせめぎ合いがおきます。

「解あり学習」の場合、「2+2」の答えは「4」と決まっています。しかし「4=A+B」の際、AとBは「1+3」にもなり得れば「4+0」も考えられます。複数の考え方が可能なのです。これが「人生における選択肢」と私は考えます。

通訳も同様です。一つの単語はいくつかの訳し方がありますし、訳出文章の組み立て方にも絶対的な正解はありません。聴衆によっては「全訳してほしい」という方もいますし、「早口では聞きづらいから取捨選択してわかりやすいアウトプットの方が良い」という考えの持ち主もいます。「高い声の通訳者より、低い声の方が心地よく聞こえる」という人もいるのです。ゆえに通訳に対する評価は非常に難しいのですよね。

これは芸術作品も同様です。私はクラシックコンサートが好きでたまに出かけるのですが、感動のあまり涙が出そうになったコンサートに対して音楽評論家が後日、厳しい文章を寄稿したのを読んだことがあります。一方、今一つと私が思った演奏に対して絶賛の声が上がることもあります。

これはひとえに「好み」だと私は思うのです。人間の顔がそれぞれ異なるように、物事への感じ方も人次第です。だからこそ人類はその多様性のおかげで進歩してきたと私は考えます。何もかもが画一化・均一化されればそこから創造の自由は生まれません。技術や価値観の発展も難しいのではないでしょうか。

しかし、多様性や個性が大事だという考えが存在する一方で、人と異なることを嫌うのも人間の特徴です。最近の書店には「愛されるための○○」「好かれる△△」という具合に、「こうすれば他者からちゃんと評価されますよ」というスタンスの本が目立ちます。皆が皆、そのメソッドを追えば、それこそ画一化してしまうように私は思ってしまうのです。

もちろん、通訳者や芸術家は聴衆が期待する内容から極端にそれてはいけません。それではお金を払ってくださる消費者の信頼に応えないばかりか、サービス提供の精神から外れてしまいます。機械で同一製品を生産するのとは異なり、「人間」がじかに提供するものには誤差が生じうるのです。万人受けするものを生み出すことは難しいのです。

今の時代、インターネット上にはあらゆるものが「評価」の対象となります。書籍レビューしかり、グルメ情報しかり、掲示板で取り上げられるコメントしかりです。誠意ある意見もあれば、建設的意見からかけ離れたものもあります。大事にしたいのは、「人の好みはその人次第」ということ。自分の意見が大半と異なることを気に病む必要もないですし、自分に対して何か言われたとしても、それは相手の考えと割り切ることも大切だと思うのです。

要は「自分の意見」を大切にすることだと私は感じています。その「自分の意見」が自分を支える哲学になるのです。通訳の際にも私は自分の業務哲学を大事にしながら聴衆の理解度を最優先したいと考えています。

(2016年2月1日)

【今週の一冊】

「されど鉄道文字 駅名標から広がる世界」 中西あきこ著、鉄道ジャーナル社、2016年

通訳の仕事をしているためか、「ことば」そのものへの興味があり、英語以外の言語や文字などに惹かれます。アルファベット以外にも世界にはたくさんの文字があり、解読できない文字ほど私にとっては神秘的です。

一方、文字のデザインやフォントなども見ていて飽きることがありません。イギリスに暮らしていたころ、ロンドンの地下鉄で使われているフォントについて知ったことがきっかけで、交通機関や公共施設、道路標識などの文字に注目するようになりました。

本書が取り上げているのは、日本の鉄道で使われている文字です。駅名が書かれているプレートを「駅名標」と言い、これはJRの場合、すべて統一されています。この文字は国鉄時代に始まり、「すみ丸角ゴシック体」と名付けられました。今や私たちにとって身近な風景の一部となっていますが、どの駅もこれで統一が図られているのです。

しかし、今の字体に至るまでは紆余曲折がありました。表記方法がバラバラだったり、書体もいろいろだったりしていたのです。本書の中で著者の中西氏は昭和21年の「鉄道掲示の栞」の一節を次のように紹介しています。

「親切丁寧であるといふことは何時いかなる時でも必要なことである。(中略)掲示も親切の心懸けがなければ意味を失ふ。乘客のこころになつての掲示でなければ掲示が眼の前にあつても乘客はやはり掛員に訊ねなければ納得できないのである。」

利用者のことを第一に考えていることがここからはわかります。そうした現場の地道な努力があったからこそ、今の書体に落ち着いたのです。サービスというのは自分のためではなく受け手を最優先すること。これは通訳業も同じです。

本書の後半ではロンドンの地下鉄で使われている「ジョンストン・サンズ」の文字についても一章設けています。すでに100年が経った書体です。他国の鉄道文字への思い、そして日本の鉄道文字への愛情がぎっしり詰まった一冊は、実に読みごたえがありました。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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