INTERPRETATION

第303回 在宅はツライよ

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

最近、大学図書館で雑誌のバックナンバーをよく借りてきます。先日借りたTIMEの巻末に出ていた記事がきっかけとなり、面白い動画を見つけました。登場するのは韓国・釜山の大学で教鞭をとるRobert E. Kelly先生。BBCのニュース・インタビューに自宅からスカイプで答えていました。

ところが生放送の最中、背後のドアから先生の幼いお嬢さんが書斎に突然「闖入」してきたのです。しかもその数秒後には歩行器に乗った赤ちゃんまで!慌てた奥様が駆け込み、二人のお子さんを室外へ引っ張り出す様子が一部始終映し出されています。動画はこちらです:

http://www.bbc.com/news/world-39232538

それでも冷静沈着に先生は韓国情勢について答えていたことから、この動画はあっという間に拡散したそうです。その後、BBCの同じニュースキャスターがご一家を改めてインタビューするという状況にまで発展しました。

そちらの動画を見たところ、ケリー先生は自宅で研究をする苦労を話しつつも、件のインタビューに関しては「書斎のドアをきちんと閉めていなかった自分が悪かった」と語っています。その一方で、二人の子どもたちにとって親がapproachableであればと願っているため、完全立ち入り禁止にはしたくない、と述べていました。

自宅で仕事をするということ。

これは一見魅力的です。混んだ電車に乗らずに済みますし、家事や子育てと両立しやすいと言えます。私自身、フリーランスで生きていこうと決めたのも、それが最大の理由でした。

しかし、ケリー先生の心境も非常によくわかるのですね。書斎で仕事をすると言えども仕事は仕事であり、お給料をいただくための責任でもあります。中途半端な気持ちではできません。締め切りが迫った原稿、翌日に控えた通訳業務、大量の採点など、やるべきことは山とあります。そのような時の私はかなりの形相(?)であり、「お母さ~ん♡」と書斎に入ってきた子どもたちに向き合い、満面の笑顔で「なぁに~?」という反応とは程遠くなります。ハイ、事実です。

特に私の場合、いったん集中モードに入るとキリの良いところまで一気に仕上げたいという思いがあります。原稿を書いているときなど頭の中にあれこれ言葉が浮かんでいますので、それらが消え去らぬうちに入力せねばなりません。脳内に漂う言葉を網で捕獲するがごとく、キーボードを打ち続けているのです。その時に全く関係のない話題や音などで遮られてしまうと、ダメージが大きいのですね。自分の集中力不足・努力不足であることは大いに自覚しているのですが・・・。

では、いつ集中するのか?私の場合、子どもたちが学校に出かけている日中が勝負時なのですが、繁忙期になるとどうしても仕事がずれ込んでしまいます。午前3時に早起きして対処できれば良いのですが、睡眠不足も避けなければなりません。

我が家は二人兄妹で、時に喧嘩をしつつも二人でワイワイ話しながら家では仲良く過ごしています。ささやかな自宅ですので、話し声は家のどこにいても聞こえます。二人で替え歌を作っては盛り上がったり、学校の話題でテンションが高くなったりという具合です。そのような時にこちらが「お仕事」をすることはほぼ不可能なのですよね。よってそこは割り切って私自身も家事をしたり、たまった新聞や雑誌などを読んだりして過ごします。

しかし一日の中でも、まるで真空内に陥ったかのごとく静かになるときがあります。具体的には子どもたちが「何かに集中しているとき(勉強や読書含む)」と「入浴」です。ほんの数十分に過ぎないこともあるのですが、このときこそチャンス!たとえ料理中でも、お皿を洗っているときでも、ここぞとばかり私は家事をほっぽらかして自分の勉強や仕事に突入します。私にとっては本当に貴重な時間ですので、悩む暇はありません。そして再び子どもたちがおしゃべりを始めたりお風呂からあがってきたりしたらGame over!「えぇ?もうお風呂から出てきちゃったの?もっと長湯で良いのよ~~~」と内心思いつつ、それでもこちらにしてみれば少しでも仕事が進んだわけですので、ありがたい限りです。

理想をあえて述べるならば、「天井から床まで壁一面の本棚、書類をたくさん広げられるデスクに座り心地の良い椅子、そして外部の音を気にせず集中できるような書斎」があることでしょう。けれども現実はそうではありません。だからこそ工夫のしがいがあるのですよね。敵(?)の動向を見極めつつ、自分が「今」できることに「ひたすら集中する」。その繰り返しがあるのみなのです。在宅勤務はツライですが、そういった試行錯誤を楽しめてこそ、次に進めると私は考えています。

(2017年4月17日)

【今週の一冊】

「『アクティブ・ラーニング』を考える」 教育課程研究会・編著、東洋館出版社、2016年

私が大学生の頃の授業と言えば、大教室に学生たちが着席し、先生の話す講義をメモするというものでした。質疑応答の時間など特に設けられず、板書を書き写すだけ。板書やプリント配布もない先生の場合は睡魔との戦いになります。昼食後の授業など恰好のお昼寝タイムでしたし、成績評価の甘い授業は「楽勝科目」と呼ばれ、出席カードだけ出して後部ドアからひっそりと退室するツワモノもいましたね。

私も決して真面目な学生ではなく、バイト疲れで授業中にまぶたが重くなることはしょっちゅうでした。意気込んで入ったサークルも2年の終わりでやめてしまい、3年生になるとバイト三昧。そのツケは4年生の時に訪れ、最終学年には土曜日の授業までフルでとっていたほどでした。当時はペアワークやディスカッション、プレゼンなどもなく、授業内容によっては私の場合、なかなかの苦行だったのです。

そのような時代から時を経た今、教育界ではアクティブ・ラーニングということばがキーワードになっています。かつて見られたような一方的な講義形式ではなく、生徒や学生たちの主体を重視するという考え方です。指導者が知識を大量に伝えるというよりも、学習者本人に考えさせ、問題を発見させ、それを次の学びにつなげていくというのが主体的学習です。

私は長年通訳学校でも教鞭をとっていますが、通訳のようにたくさんの訳例がある世界でも、受講生はついつい「正解訳」を求めがちです。大学生も同様で、絶対的に正しい答えを探ろうとしてしまいます。なぜでしょうか?おそらくこれは、それまで受けてきた教育が「解あり学習」だったからと私はにらんでいます。

「正解が一つ」というのは、実は学ぶ側にしてみればラクなのですよね。それだけ暗記すれば良いわけですし、深く考えずに済みます。けれども、そうした思考様式が身についてしまうと、何事においても常に「正解」を求めてしまうのではないでしょうか?日々の物事の選択においても、ささいな問いに関しても、無意識のうちに「正解」を探し求めてそれに安住してしまう。その結果、自分の本音が心の奥底に追いやられてしまい、生き方自体に息苦しさを覚えてしまう。そのようなことを私は危惧します。

本書は教育現場においてアクティブ・ラーニングをどのようにとらえ、どう実践しているかが各著者の視点からまとめられた一冊です。具体的な方法が多岐に渡り紹介されており、指導現場に携わる者にとってはアイデアの宝庫です。

講義一辺倒だった日本の教育界は今、大きく変わりつつあります。現場の先生方がこうして実践され、次世代の子どもたちを育てて下さっているのは心強い限りです。指導者、学生、保護者、そして日本の教育の未来に興味のある方すべてにお勧めしたい一冊です。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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