INTERPRETATION

第260回 使命感で仕事をしているか

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

ふとしたきっかけや読書が契機となり、尊敬すべき人物に出会う。これほど幸せなことはありません。私が敬愛するジャーナリストの故・千葉敦子さん、精神科医の神谷美恵子先生、「森のイスキア」主宰の佐藤初女先生、指揮者のマリス・ヤンソンス氏の4名には共通点があります。それはいずれも「仕事における使命感」です。

4人は生きた時代も職業も異なるのですが、それぞれ「他者」のために自分ができることを熟考しながら、「今」を精一杯生きておられます。「有名になりたい」「カッコよく仕事をしたい」「賞賛されたい」という思いからはいずれもかけはなれており、それどころか、むしろそうした顕示欲の対極に4者はいらっしゃいます。

先日のこと。この4名に加えてもう一人、素晴らしい方に出会いました。ジャパネットたかたの前社長・高田明氏です。

私はテレビ通販でモノを買うことはほとんどありません。また、テレビの放送通訳業をしている割には、自宅でテレビを視聴しない生活を送っています。それでもごくたまにチャンネルをザッピングしていて、高田氏のあの独特の口調に魅せられ、見入ったことが幾度かありました。

放送通訳者として私は「ニュースをいかに視聴者に理解していただけるか」「そのために自分はどのような通訳をすべきか」という思いを常に抱いています。今の時代、テレビを見る人自体が少なくなっていますので、もしかしたら自分がオンエア中に私の同時通訳を聴いている人はごく少人数かもしれません。「たった一人の方でも良い。その人が私の日本語訳を通じて世界情勢に目を向けて下されば」という思いが私の中には強くあります。

もう一つの私の仕事・英語講師の場面も同様です。教師ができることは勉強の方法やきっかけを与えることであり、学生の「代わり」に私が勉強することだけはできません。教材を通じて、あるいは授業内の私の話を機に、学習者たちが自ら学び始めること。それが私に課された役割だと思っています。

そのような思いを抱いていたとき、運よく高田氏の講演会に抽選で当選しました。テレビで拝見するのとまったく同じ、明るく笑顔で覇気あるお声の高田氏が登壇され、聴衆はすっかり魅了されました。ユーモアあふれる講演は、歴史の話から高田氏が読んだ書籍の紹介まで盛りだくさんでした。多岐にわたるお話を伺い、高田氏がいかに努力家でたくさんの書物から多くのことを吸収されてきたかがわかります。

中でも印象的だったのは、「今」を生きるということ。「過去や未来でなく、今、この瞬間を生きることがすべての問題を解決する」というお話は、目からうろこでした。私たちはついつい過去を悔やんだり、未来に不安感を抱いたりしてしまい、「目の前の瞬間」から魂が抜け出てしまっています。今を大切に生きるということは、私が敬愛する先の4名の方々も日頃から実践なさっていることなのです。

高田氏は、「ラジオのように映像がない状態であっても、心で喋ることはできる」とおっしゃいます。私が携わる通訳の世界も、「耳を通じて入ることば」だけですが、「伝えたい」という思いや熱意は必ず聴衆によって受け止められると私は信じています。

「優越感もなく劣等感もない」と奥様に指摘されたいう高田氏。他者と比較するのでなく、「今」を生き、自分のペースで自己更新を行い、目標を変えていく大切さを、講演会では繰り返し説いていらっしゃいました。私も通訳や指導の場において、使命感を改めて意識し、今を大切にしていきたいと思います。

【今週の一冊】

「戦火のシンフォニー:レニングラード封鎖345日目の真実」 ひのまどか著、新潮社、2014年

きっかけは一通のメールマガジンでした。私は旧ソ連・ラトビア出身の指揮者マリス・ヤンソンス氏の大ファンで、これまでの来日公演は欠かさず聴きに行っていました。チケットを購入したのがきっかけで、その音楽エージェントからはメールマガジンが送られてきます。

ここ数年、購読メルマガ数が増えすぎたこともあり、だいぶ配信停止をしてきましたが、その会社だけは解除せずにいました。そして先日のこと。送られてきたメルマガをななめ読みしていたところ、「ショスタコーヴィチ」の名前が目に入ってきたのです。

ショスタコーヴィチは旧ソ連時代を生きた作曲家です。私が最初にその名前を知った高校生の頃は「難解な現代音楽家」というイメージしかありませんでした。ところがヤンソンスがショスタコーヴィチの作品をCDでたくさん出していたこともあり、少しずつ私も魅了されていきました。

今回ご紹介する一冊は、音楽作家・ひのまどかさんが第二次世界大戦中の「レニングラード封鎖」とショスタコーヴィチの交響曲第7番「レニングラード」の演奏を歴史的史実に基づきながら解説しています。当時、ソ連はナチスドイツの攻撃を受け、レニングラードも四方八方から封鎖されました。市民たちは軍事攻撃だけでなく、食糧ルートも断たれたため餓死者も出るほどの状況に直面していたのです。そうした危機的状況の中、ショスタコーヴィチは勇敢にも交響曲7番を作り上げ、楽団員たちが戦火の中で演奏したのでした。

私は高校で世界史を履修していましたが、戦争についての知識は恥ずかしいほど乏しいままです。先日、広島の原爆資料館で見た展示物から新たなことを知り、衝撃を受けたばかりでもあります。そして今回、一通のメルマガに記された「ショスタコーヴィチ」の一言から、ひのまどかさんの講演会を知り、レニングラード封鎖について調べ、本書を入手するという経緯になったのでした。

戦争がもたらすものは「破壊」しかありません。けれどもそのような絶望の最中に、それでもどうやって前へ進むかを考えるのが人間だと思います。本書の執筆のためだけにゼロからロシア語を学び、徹底取材をなさったひのまどかさんのおかげで、私たち読者は歴史への認識をさらに深めることができるのです。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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