INTERPRETATION

第190回 仕事への振り返り

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

毎年秋になると私にとっての「恒例行事」がやってきます。ラトビア出身の指揮者マリス・ヤンソンス氏の来日公演です。ここ数年はオランダ・コンセルトヘボウ管弦楽団とドイツのバイエルン放送交響楽団を交互に率いてのコンサートとなっています。今年はバイエルンでした。

私がマエストロ・ヤンソンスの音楽に初めて触れたのはロンドン留学中の1993年です。大学院の厳しい課題に圧倒される中、唯一の息抜きが音楽鑑賞でした。コンサート中の数時間だけは何物にも邪魔されず、懸案の論文のことも忘れて美しい旋律に身をゆだねることができました。ロンドンでは学生料金が設定されており、開演数時間前になるとS席が格安料金で発売されます。私は地元ロンドン・フィルのコンサートにせっせと通っていました。その客演指揮者を当時のヤンソンス氏は務めていたのです。

私は指揮法に精通しているわけではありません。よって、それまではどの指揮者の振りも同じように見えていました。しかしマエストロの振りを見たとき初めて、指揮そのものから感動を覚えたのです。楽団員すべての動きに目を行き届かせ、どのパートもメロディのどこかで主人公になれる、各楽器に花を持たせる、そんな振りがヤンソンス氏の全身からにじみ出ていたのでした。留学中は氏のコンサートすべてに出かけ、大学院終了後は卒業旅行を兼ねてザルツブルク、ウィーンまで足を伸ばし、マエストロのコンサートを味わいました。

なぜ私がここまで魅かれるかというと、振りが美しいからだけではありません。プログラムに書かれているインタビュー記事などを読むにつけ、ヤンソンス氏の仕事観に非常に共鳴するからです。特に作曲家の音をどう解釈し、それを表現していくかに関する氏の考えは通訳者の仕事にも通じると私は感じました。表面的な音だけでなく、その時代の背景まで深く深く研究した上でのマエストロの振りには大きなメッセージ性を感じます。ことばを生業とする私にとって、通訳という仕事は辞書的な言語変換だけでは不十分です。背景知識や教養を学ぶ大切さは音楽であれ言語であれ、共通するのだということを学んだのでした。

10年以上前、「ラ・ボエーム」を振っていたときのこと。あと少しで演奏終了という中、マエストロは指揮の最中に心臓発作を起こしたそうです。幸いペースメーカーのおかげでその後指揮者として復帰は果たしたものの、体力には人一倍気を遣っています。今回の公演プログラムを読むと「ツアー中もホテルで休養を取り、エネルギーの消耗を避けている」と現地ジャーナリストが綴っていることが分かります。

今やベルリン・フィルやウィーン・フィルなど、世界の著名オーケストラでも客演するヤンソンス氏ですが、本人は「音楽とは、地位で良し悪しを決めるものではない」と述べています。

「私は、すべてを尽くさなければならないことに、強い責任を感じています。毎回の演奏会を、素晴らしいものにしたい、さらに解釈を深めたい。そのため私は、演奏会ごとに非常に緊張します。この緊張は、年々強くなるように思われるのです。」

このことばを読んだ私は、果して自分が今目の前の仕事に真摯に取り組んでいるだろうか、責任を強く感じているかと自問自答しました。毎年美しい音楽を私たちに提供してくれるマエストロをコンサートホールで見るたびに、私はいつも自分の仕事を振り返ります。そしてコンサートが終わるころには、もっともっと丁寧に仕事をしていこうと反省するのです。

(2014年12月1日)

【今週の一冊】

「江戸時代の医師修業 学問・学統・遊学」海原亮著、吉川弘文館、2014年

先日CNNで興味深いニュースがあった。インドのある村からのレポートである。そこでは昔から男性たちが「力強さ」を磨き上げる習わしがあるそうだ。泥だらけの土の上でレスリングのような動きをしたり、バク転を練習したり、重量挙げに励んだりしている。ウェイトなどは使い古された道具ではあるが、誰もが嬉々として取り組んでいたのが印象的だった。終了後のマッサージも、近くの巨大な石の上にうつぶせになり、仲間にもみほぐしてもらっている。そう、立派な道具などなくても意志さえあれば訓練はどこでもできるのだ。英語学習にも当てはまるとしみじみ思う。

今回ご紹介する一冊は江戸時代に医師たちがどのように修業したかを綴ったものである。日本の医学が今のレベルに至るまでに、先人たちは多大な苦労をしている。医師免許などの国家試験がない中、医師たちがどのようにして必要な学問を身につけていったかが本書には記されている。

特に印象的だったのは本に関する記述だ。今のように誰もが書籍を入手できた時代ではない。医学書や海外の書籍などは非常に高額かつ貴重なものだ。ゆえに一冊を塾生同士で融通し合ったり、一冊まるごと書き写したりという涙ぐましい努力が注がれている。また、生まれ故郷を離れて京都などの医学先進地へ「遊学」した様子も本書には詳しく説明されている。

今の時代、私たちは何かに取り組む際、「時間がない」「自分に合ったテキストがない」「先生がいない」「学校が合わない」など、色々と「ないない」台詞を吐いてはいないだろうか。自分が着手しない言い訳ばかりを前面に出してはいないだろうか。

本書を読むと、当時の人々がいかに自分に言い訳をせず、「やらない理由」を探したりせずに黙々と取り組んでいたかが分かる。いにしえの人たちの態度から私たちは多くのことを学べると思う。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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