INTERPRETATION

第277回 1人の教師として

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

通訳学校や大学での指導を始めてから数年が経ちました。私にとってのそれまでの指導経験と言えば、大学4年時の母校での教育実習だけ。家庭教師のアルバイトこそしていましたが、「大勢を前に教える」という経験はないままこの仕事を始めるようになったのです。指導をし始めてつくづく思ったのは、「英語の通訳者をしていること」と「通訳の指導ができること」の大きな違いでした。

たとえばスポーツ界においても、名選手が名監督になれるとは限りません。現役のプレーヤーとして優秀であっても、チームをまとめ上げたり、スキルを向上させたりするには向いていない人もいます。私自身、教え始めてから「自分はやはり現場の人間であって、教える側に立つべきではないのでは?」と思い悩んだこともありました。教材研究をして教案を作り、万全の準備をしたにも関わらず、授業運営は今一つということが続いていたからです。

けれども通訳業務同様、何事も場数を踏むことがモノを言うのですよね。毎回授業を終えるたびにその日の反省点を振り返り、試行錯誤しながら次へと改善につなげていきました。そのプロセスは今も続けています。学習者同様、指導者である私も学び途上にあるのです。

そうした状況にいることもあり、「素晴らしい指導者」に巡り合えるととても幸せです。今でも私の心に残っているのが、20年ほど前にオックスフォード大学の民族楽器博物館で出会った教授の方です。先生は展示されていた南太平洋の楽器について、実に楽しそうに説明して下さいました。目の前の数々の楽器を見ては “It’s so beautiful, isn’t it?”と表現するぐらい、ご自身の研究対象をこよなく愛しておられる様子がわかりました。民族楽器に無知であった私も先生のそのような雰囲気に引き込まれたことを思い出します。

もう一人、記憶にあるのが高校時代の物理の先生です。私は小学生の頃から理系科目はすべて苦手で、物理の教科書を見てもちんぷんかんぷんでした。ところがその先生はご自身のことばで物理の楽しさを授業中に語ってくださったのです。私の物理テストの点は今一つでしたが、「物理=楽しい科目」という図式だけは頭の中に刻まれて今に至っています。

そう考えると、指導する上で一番大切なのは「指導内容を心から愛すること」だと私は考えます。この土台さえしっかりしていれば、指導場所の環境が多少整っていなくても、あるいは今一つ乗り気でない学習者を前にしても、きっと打開策が見つかると思うのです。今の時代、通訳学校や大学には立派なCALL施設が備わっていますが、通訳用の教材や通訳の指導そのものさえ好きであれば、それこそCDプレーヤー1台、いえ、自分の肉声で音声を読み上げるだけで授業は展開できるのです。

指導内容を前向きな気持ちでとらえられれば、その魅力を学習者にも伝えたいという思いが募ります。どうすればこの楽しさを理解してもらえるか工夫するようになるのです。「学習者たちはわざわざお金と時間を投資してこの授業に来て下さっている」と思うと、なんとしてもこの学問の素晴らしさや楽しさを知ってほしいという考えが湧き出てきます。指導内容を好きになり、学習者を好きになることが指導者には求められると思うのです。

ノーベル平和賞の授賞式典でマララ・ユスフザイさんは「1人の子ども、1人の教師、1本のペン、1冊の本が世界を変えられる」と述べました。学ぶ側にいる方々に少しでも変化を提供して差し上げたい。そんな「1人の教師」になりたいと私は思っています。その追求は一生続きます。

(2016年9月26日)

【今週の一冊】

「築地市場:絵でみる魚市場の一日」 モリナガ・ヨウ(作・絵)、小峰書店、2016年

何かと「築地市場」がキーワードとなっている今日この頃ですが、「市場」の仕組みそのものを自分はきちんと知っているかしらと思ったのが本書を読んだきっかけでした。子どもでもわかるような絵本仕立てになっており、年齢を問わず幅広い層が大いに楽しめる一冊です。

表紙を見てみるとまるで「ウォーリーをさがせ!」のごとく、細部まで描かれている市場の様子が展開します。著者のモリナガ・ヨウさんは早稲田大学で地理歴史を専攻され、漫画研究会に所属なさっていたそうです。これまでも働く車や新幹線などの本を出しておられます。

本書は夜の11時から明け方までの築地市場の動きを描いています。子ども向け絵本なので難しい漢字には読み仮名も付いているのがありがたいですね。日本語を学習中の外国人にとっても読みやすいことでしょう。漁船や魚の種類、魚の並べ方にせりの方法などもわかりやすく説明があり、これまでテレビで何となく見ていた様子が理解できました。

ちなみに築地市場の構内図を上から見ると扇状になっています。なぜなのか疑問だったのがこの本でわかりました。魚を運ぶためにかつて鉄道の線路が引かれていたのだそうです。

本書の巻末には豊洲市場への移転が2016年11月に予定されているとあります。移転問題をきっかけに、市場の仕組みそのものを知ることができた、貴重な一冊でした。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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