INTERPRETATION

第280回 エネルギー分配のこと

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

父の転勤で数年間海外で生活し、その後日本に帰国したのは私が中学2年生の時でした。自宅の隣にあった地元中学に入学したものの今一つなじめず、わずか1週間通っただけでギブアップしてしまったのです。幸い、電車とバスを乗り継いだところに帰国子女受入れの公立中学があり、私はそちらに転校しました。良き校長先生、担任、そしてクラスメートに恵まれ、スムーズに日本の中学生活になじむことができたのでした。

当時はまだ「お受験」なども少なく、中学生で定期券通学は珍しかったと思います。電車に乗ると、私よりも年上の人が圧倒的に多くいました。自分が社会の中でもまだまだ若輩者であることを痛感したことを思い出します。その後も高校、大学を経て社会人になるまで電車を使った通学・通勤は続いたのですが、中学時代のメンタリティが強烈だったためか、「周りはみな年上」という感覚で世の中を見ていたように思います。

しかしふと気がつくと、「あれ?私より若い人が働いている」という状況になったのですね。駅の職員やお店のスタッフ、病院の医師や看護師さんなど、いつの間にか「私よりも年下が大半」という年齢に自分がなっていたのです。そう、人間は誰もが平等に年を重ねていくのです。

そのように考えると、自分に与えられた時間には限りがあることがわかります。その有限の命をいかに意義あるものとして生きていくかを私たちは意識する必要があるでしょう。ついつい20代のメンタリティのまま、気力も体力もあるように錯覚してしまいますが、決してそうではないのですよね。

そう気づいた私は、自分が何を得意とし、どういった分野であれば社会のお役に立てるかを考えるようになりました。若いうちは不得手なことにもチャレンジして視野を広げ、可能性を切り開く必要があるでしょう。けれどもある程度の年齢になったならば、自分が世の中に貢献できる強みの部分に集中をしていくべきなのではと感じます。

私の場合、英語に関する指導をしたり通訳業に携わったりというのは自分の好きなことです。よってこの分野であれば少しは社会に恩返しできるのではと思います。逆に今、この年齢で「私はクラシック音楽が好き。だからプロのバイオリン奏者になりたい」と思ったとしても、それには限界があります。バイオリンの音色は好きですし、バイオリン曲にも惹かれますが、今の段階で私が練習をしてプロを目指すよりは、もっと別の方法でできることがあると思うのです。たとえば、美しいバイオリン曲を聴いてその背景知識を学び、作曲家の人生について英語や日本語で情報を仕入れる。そしてそれを授業の場で話したり書いたりしてみる。むしろその方が社会に対して早く私のメッセージを伝えることができます。

近年、世の中ではいわゆる「クレーマー」と言われる社会現象が起きています。納得のいかないことや理不尽なことを体験した際、社会や相手に対して直接自らの主張をしていく行為です。もしそうした訴えをしていくことで世の中が改善されるのであれば、クレーム行為自体にも一理あるでしょう。けれども「クレームのためだけのクレーム」になってしまったり、「自分自身のメンツのためだけの苦情」となったりしてしまうと、クレームを受けた組織や当事者ができる対応にも限界が出てきてしまいます。

世の中の改善のために建設的意見を述べることは正しいエネルギー分配ですが、執拗に自己主張「だけ」を続けてしまっては、その人自身、自らの限られた時間を奪っていることになりかねません。むしろ、本来その人が傾けるべき得意分野にエネルギーを割いた方が世の中のためになると思うのです。

今年も残すところあと2か月強。毎年この時期になると、自分に与えられている「時間」を意識するようになります。エネルギーを有効に活用し、正しく分配しながら生きていきたいと思います。

(2016年10月17日)

【今週の一冊】

「漱石のロンドン風景」 出口保夫著、アンドリュー・ワット著、中公文庫、1995年

先月から東京・駒場の日本近代文学館では「漱石―絵はがきの小宇宙」と題する展示会が開催中です。漱石と絵はがきをキーワードにしたもので、すでに新聞などでも話題になっているようです。私は昔から「手書き」という行為が好きで、手紙を書くことや旅先からはがきを出すことなどを今でも続いています。そうしたことから、この展示会にはぜひとも足を運びたいと思っています。

今回ご紹介するのは、夏目漱石がロンドン留学中に何を見聞したかを当時のロンドンの風景からとらえた一冊です。日本のように木造建築がすぐに改修・改築されるという状況とは異なり、英国はレンガや石で造られた建物が大半です。よって、本書に掲載されている建造物は今とさほど変わりません。ロンドン旅行のガイド本として、本書を漱石の観点からとらえてみるのも楽しいと思います。

ページをめくるとロンドン市内の名所旧跡が漱石の文章と共に紹介されています。また、当時のイギリス人の暮らしぶりを描いた写真や、漱石が下宿探しの広告を出した「デイリー・テレグラフ」紙も紹介されています。当時のイギリスはビクトリア女王の時代。また、現在横須賀に展示されている戦艦「三笠」の進水式がグラスゴーで行われたのも漱石が滞在中のことでした。

当時の写真をこうしてまとめてみることができるのも本書ならではの特徴です。漱石についてはもちろんのこと、イギリスの歴史や建造物、文化などに興味がある読者にとって実に貴重な作りとなっている一冊です。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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