INTERPRETATION

第321回 本当に必要なもの

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

私は子どもの頃、あれこれとコレクションするタイプでした。切手、シール、グリコのおまけ、便箋、香り付のペンなどなどです。子どもというのはどうやら「集めること」が好きなのでしょうね。度重なる引っ越しで手放したものがほとんどなのですが、「グリコの何百というあのおまけ、まだ持っていたら博物館入りしたかも」などと一人空想してはつい笑みがこぼれてしまいます。

一方、今の自分はと言うと、出来る限りモノを持たない暮らしを心掛けています。結婚して家族が増える中、仕事を続けてきたこともあり、あまり家事に時間をさけなくなってしまったからです。もともと私は掃除や片づけが好きで、いったん着手すると徹底的に凝る方です。大学院時代も、論文執筆という厳しい現実から逃避するため、ひたすら片づけばかりしたほどでした。今ももし、モノが家の中にあふれかえっていた場合、本来やるべき仕事を二の次にしかねません。だからこそ、少ない品数で暮らしたいと思う次第です。

ところでずいぶん前、確か映画のポスターか何かで次のような文章を見たことがあります。

「富も名声も力もすべて手に入れた男」

要は、「その登場人物には実力があり、人生で必要なものは全部手中に収めた」ということをこのキャッチコピーは表現していたのですね。

人間というのは、自分の手の届かないものに憧れる習性があるようです。「今月は自由に使えるお小遣いが少ないなあ」という人にとっては、それこそ「可処分所得」が多いに越したことはありません。フリーで仕事をしている人にとっては自分の名前を知ってもらい、業務が増えることで評価も高まります。そうなるとある程度の「名声」も求められるでしょう。また、何か自分から社会に発信したいとなれば、人々に聞いてもらう必要があります。聞いてもらうためには自分に権威や権力がなければそのチャンスはやってきません。そう考えると、「富・名声・力」が人の評価基準になる、というのも理解できます。

けれども、と私は思うのです。

そうした基準「だけ」が人生であるとは、齢を重ねるごとに私は感じられなくなっています。もっと「無形のもの」にこそ、人を幸せにするちからがあるように思えるのです。

そうした「無形要素」というのは人それぞれでしょう。幼少期の楽しい思い出もあれば、先日食べたおいしい料理ということもありえます。そうしたことを心の中に再び思い描くたびに、幸せな気持ちになり、またこれからも前向きに歩んでいこうと思える。逆にどれほど地位やお金などを手にしたところで、心の中がスカスカしていれば、空しいままで人生を歩むことになります。

私が敬愛する精神科医・神谷美恵子先生(1914-1979)は、紆余曲折を経てハンセン病棟の医師を務めるようになりました。終戦直後にはその比類なき語学力を買われて安倍能成文部大臣の通訳者を務め、GHQとの交渉にも携わりました。また、二人の子どもたちが小さいころは自宅で英語塾を開いたり、大学で英語を教えたりという日々を続けています。けれども心の中では早く医療の現場に就きたいという焦りを抱いていました。その当時の日記に神谷先生は次のように記しています。

「お金と、地位と―こんなものかなぐりすてる事ができたら!」

私はこの文章に触れるたびに、人間として本来どうあるべきかを改めて考えさせられます。モノ的な生き方ではなく、自分に与えられた使命をしっかり見つめたいと思うのです。

【今週の一冊】

「すらすら読める風姿花伝」 林望著、講談社、2003年

初めて「風姿花伝」に触れたのは、確か高校時代の古典授業だったと記憶しています。あるいは中学校だったでしょうか。いずれにせよ、古文の勉強の最中に接したというのが私の中での思い出です。当時の私にとっては、「古文=品詞分解」という図式しか頭にありませんでした。単語の意味も現代語とは異なります。「覚えなきゃ」という、テスト対策的なアプローチしかできなかったのです。どのような学問であれ、楽しく味わう方が身につきますし、人生も豊かになります。けれども当時の私はそこまで心の余裕がなかったのです。

再び「風姿花伝」の名前を耳にしたのは数年前でした。早稲田大学で開かれた講演会に出かけたのです。登壇されたのは、ジャパネットたかたの高田明社長。あのテンションで楽しいお話を伺う中、氏が何度も勧めていらしたのが「風姿花伝」でした。その中に出てくる「秘すれば花」という言葉がとてもお好きであるということをおっしゃっていました。

ここ数か月、私は自分の通訳パフォーマンスや授業時の声の出し方など、大幅な見直しをしています。かつておこなっていたやり方に、自分でダメ出しをするようになったのです。それまでは全く疑うことなく自分のやり方を実践していましたが、ふとしたきっかけで、「このままでは成長もないまま自分が止まってしまう」と思うようになったのです。

今回ご紹介するのは「風姿花伝」を易しく解説した、あの林望先生による一冊です。私は自身を振り返るにあたり、「風姿花伝」にその道しるべが記されているのではと考え、本書を手にしました。林先生の現代語訳も解説文も実にわかりやすく、古文に縁遠い生活を送ってきた方にも安心して読める構成となっています。

「風姿花伝」とは、能楽の世界において年齢別に取り組むべきことが綴られた指南書です。たとえ自分の年齢を過ぎている章でも、必ず応用できることがあるはずです。具体的には、基礎を大切にすること、お客様の視点に立つこと、出過ぎないことなどが通訳の世界に当てはまります。

大量の情報が出回る今の時代に、私たちは何を大切にすべきか。そのことを冷静に考えるきっかけとなる一冊です。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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