INTERPRETATION

第322回 五感を研ぎ澄ませる

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

今の時代、「スマートフォンもiPadも持っていません」と言うと本当に驚かれます。数年前は「ふーん」という反応でしたが、最近は「ええっ!?」というどよめきに近いレスポンスも見られるようになりました。私は冗談半分で「旧石器時代の人間」と自称しています。けれども上には上がいるものなのですよね。私の知り合いで、そもそも携帯電話自体がキライなのでガラケーすら持っていない、という方もいました。ただ、ご家族の意向で「とりあえず万が一のためにも持つだけは持ってほしい」と懇願され(?)、仕方なくカバンに入れるようにはなったそうです。もっとも、自分から使うことはないのだとか。ちなみに「旧石器時代」は英語でthe Paleolithic eraと言います。paleo-やpale-はギリシャ語の接頭辞で、「古、旧、原始」という意味です。-lithicはギリシャ語から来ており、こちらは「石」のこと。「石版画、リトグラフ」のlithographという語がありますよね。

さて、スマートフォンも携帯音楽プレーヤーも持たない私にとって、一番の楽しみは「自然の美」に触れることです。放送通訳の業務で始発の電車に乗った際には、日の出の太陽を電車の中から拝みます。最初は小さかった太陽がぐんぐん上り、オレンジ色の大きな面積を見せてくれると、自然の偉大さを感じます。ちょっと目を離そうものなら、あっという間に上り、面積も小さくなり、色もいつもの金色に変わってしまいます。私にとってはあの赤みを帯びたオレンジ色というのは見逃せない瞬間です。

仕事帰りの夕方も同様です。暮れゆく西の空というのは本当に美しく、夏の終わり・秋の始めに見られる、あの白い雲と空の色がバランスよく目の前に繰り広げられます。西の方には山が連なり、黒い影を帯びた山とのコントラストも美しいものです。このような光景を見ていると、日中の疲れも吹き飛び、あっという間に最寄り駅に到着します。

先日のこと。スーパーで買い物をしたあと、商品を台のところで詰めていました。するとどこからか良い香りがします。振り向くと、そこには生花コーナーがありました。なるほど、お花の香りだったのですね。よく見ると、秋の花がブーケになって並んでいました。紫のリンドウを始め、マムなども見られます。普段私はスーパーで買い物をするとササッとお店を後にするのですが、その日は数々のブーケにしばし見とれたのでした。

ちなみに「マム」は英語で書くとmumです。実はキク科の花で、文字通り、chrysanthemumの「マム」から来ているのですね。フラワーショップのHPを見ると写真や花の名前の由来、花言葉などが出ています。見ているだけでうっとりします。

話を元に戻しましょう。

このような具合に私は視界に入るものや香り、鳥の鳴き声などの音、触感や味わいなどを大切にしたいと思いながら日々を過ごしています。私たちの世界は最近、AIなどに代表される技術の進歩が顕著になっています。けれどもその一方で、自然が私たちにもたらしてくれる美というものは何物にも代えがたいのですよね。デジタルの世界の中に人工的なヨロコビを探し求めなくても、身近なところに私たちを悦ばせてくれるものはたくさんあるのです。

私の場合、通訳や英語指導の仕事を通じて「ことば」そのものへの「美」も感じるようになりました。ことば自体が香りや気持ちの良い手触りをもたらしてくれるわけではありません。けれども、耳から聞いた単語の音の美しさや、アルファベットの集合体である単語のデザイン的な美しさなど、惹かれる部分はたくさんあるのです。

語源を私がせっせと調べるのも同様の理由からです。「元はギリシャ語で、年月をかけてこのような英語の形になった」という事実を知るだけでも、歴史の中を生き延びた単語の生命力を感じます。

こうして毎日、五感を研ぎ澄ませながら暮らしていると、単純なものも宝物のように光り輝いて私には見えてくるのです。

(2017年9月11日)

【今週の一冊】

「写真が語る日本空襲」 工藤洋三・奥住喜重著、現代史料出版、2008年

大きな出来事が発生すると、その時自分がどこでどのような状況下にあったかを、後に強烈に思い出すことがあります。私にとってのそうした出来事は、JALの御巣鷹山墜落事故、オウム真理教サリン事件、そしてダイアナ妃のパリ事故死です。

そしてもう一つ、私にとって忘れられない「世界を揺るがした出来事」があります。今から16年前の9月11日に起きた「アメリカ同時多発テロ事件」です。あの日を境に世界は大きく変わったと言っても良いでしょう。9・11が一つのきっかけとなり、アメリカはその報復としてアフガニスタンやイラクへの武力行使に踏み切りました。そして長い戦いが今に至るまで続いています。

今回ご紹介するのは、第二次世界大戦に関する本です。掲載されている写真のほとんどは、アメリカの公文書館に保管されている貴重なものであり、戦勝国アメリカがどのようにして第二次世界大戦における勝利をおさめたかが、この一冊からはわかります。写真に描かれている兵士たちの表情を見る限り、いかにアメリカが勝利を確信していたかがにじみ出ているように私には思えました。

本書には、日本がどのように空爆されたか、全国の主要都市における爆撃がどうおこなわれたかがわかる構成になっています。上空からとらえた街の様子は、戦後復興後の今と基本的には変わりません。川があり、台地があるという光景は、戦後数十年経っても昔の地形そのままが残されています。だからこそ、第二次世界大戦当時、あの空の下にいた人々は、どのように空襲を受け止めたのか、よけい如実に浮かび上がってくるような気がします。

2017年も残り少なくなりました。第二次世界大戦はますます遠のいています。一方、世界のどこかでは今現在、こうした空爆があり、戦時下にある国が存在します。そこには家族があり、家があり、小さな子どもたちも生活しています。「今」の世界に改めて目を向けるきっかけとなったのが、私にとっての本書でした。

Written by

記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

END