INTERPRETATION

第323回 学びに正解はない

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

中学2年の秋に日本へ帰国した私にとって、歴史の授業というのはなかなか難しいものでした。「徳川家康」がテーマだったのですが、私にしてみれば「トクガワ?Who?」という感じでしたね。日本の古代史から続けて学んでいなかったわけですので、突如現れた江戸時代にチンプンカンプンでした。

一方、イギリスの歴史授業では主にイギリス史を習いました。バイキングやサクソン人などを始め、「ばら戦争」「ヘンリー8世」などが出てきましたね。ただ、日本人の小学生である私には全体像がつかめず、こちらはこちらで苦労しました。

ちなみにイギリスの小中学校における学年末テストはオール筆記です。試験時間も長く、暗記では太刀打ちできませんでした。問題文も、たとえば「ヘンリー8世の6人の妻のうち一人を選び、イギリス史に与えた影響を考察せよ」といった論述問題です。しかも回答用の筆記用具は「万年筆」。これは教師が生徒の思考過程も見るためなのですね。私たち生徒はスペアインクのカートリッジやインク壺(懐かしい!)を机の上に用意して、せっせと記述したものでした。

私が編入したころの現地校では、日本人が私一人だけでした。よって子ども心ながら「自分の失敗イコール日本の恥」というプレッシャーがありました。試験で低得点をとることはあってはならないものだったのです。当時の日本は高度経済成長こそ経たものの、世界的なプレゼンスはまださほど高くない状況でした。「日本人=粗悪品を大量生産して売り込んでくる」「日本人=眼鏡姿にカメラをぶら下げて大声で観光している」という見方がそのころのイギリスにはあったのです。

そうしたステレオタイプを払拭するために、10歳の自分にできることは、せめて恥ずかしくない姿をクラスメートや先生に見せることでした。今にして思えば、もっと子どもらしく自由にのびのびと過ごしても良かったのでしょう。けれども、それを許してしまうことは自分への敗北であり、日本に対して申し訳ないという思いがありました。

とは言え、英語もおぼつかない状態で編入した私にとって、学年末試験にどう対処するかは大きな課題でした。事前に試験範囲や日程を告知されてはいますので、あとは試験勉強をするだけです。けれども英文すらろくに綴ることもできず、そもそも一般常識のストックも大してありません。母語で同一内容をある程度仕入れて頭の中に入れていれば、拙い英語で書くことはできるでしょう。けれども私にはそれ自体が欠如していたのです。

今でも忘れない、歴史試験の前日のこと。何もせぬままテストを翌日に控えた私が付け焼刃的にとった行動は、「児童向けイギリス史の本を通読すること」でした。学校配布の歴史教科書は字が細かくて英語も難しく、理解できていなかったのです。幸い家には父が買ってくれた幼児向け歴史本がありました。教科書よりもイラストが多く、活字も大きくて平易な文章です。それでも厚さは300ページぐらいありました。これを試験前日の私は読み始めたのでした。

もう後には引けない状態でしたので、自分の中でも必死さとあきらめが混在していたと思います。それでも私はその児童書の音読を、放課後から寝るまでただただおこないました。10歳児にしては、かなりの集中力だったと思います。

翌日のテストで自分がどのような点数をとれたかは記憶していないのですが、それでも試験中にさじを投げず、何とか苦し紛れに答案用紙に書き込んだことだけは覚えています。おそらく前日に「音読した内容」につじつまを合わせながら書き出していったのでしょう。

あの筆記試験のおかげで、「学びにおいて必要なこと」を私は得たように思います。具体的には「プレッシャーを自分に課すこと」です。今でこそ私は「楽しく勉強しましょう」と授業では述べていますが、それと同時に、プレッシャーは決して悪ではないとも考えます。自分へのプレッシャーは莫大な原動力にもなるからです。

そしてもう一つは「集中力」。自分が選んだ学習方法を信じて、あとは集中するしかないのですね。子ども時代、他の予習方法を思いつかなかった私にとって、児童書の音読は唯一の選択肢でした。それがかえって良かったのだと今は思います。

学びには色々な形があり、正解はありません。その時その時に応じて、ベストを尽くすことが大事なのでしょうね。

(2017年9月18日)

【今週の一冊】

「3万冊の本を救ったアリーヤさんの大作戦―図書館員の本当のお話」 マーク・アラン・スタマティー作、徳永里砂訳、国書刊行会、2012年

8月ごろから「第二次世界大戦」をキーワードに色々と調べています。前回のこのコラムでも東京大空襲の本をご紹介しましたよね。その流れで先日、興味深いDVDを観ました。「疎開した40万冊の図書」というドキュメンタリーです。

このDVDは、第二次世界大戦中に日比谷図書館の本を戦禍から守るために疎開させたという話題です。すべての所蔵本を移すまでには至らなかったものの、日比谷高校の学徒動員の助けも仰ぎながら、あきる野市や埼玉県志木市に本を疎開させたのでした。

「本」というのは、こと戦争が起きれば守るべきプライオリティの最後の方に置かれかねません。命を守ることと食べることで人は精いっぱいになってしまうからです。けれども、本はその国の文明や文化を作り上げてきたものであり、美術品同様、人々の手で守らねばならないのだと私はこのDVDを観て強く思いました。

そのDVDの中で紹介されていたのが、イラクのバスラ中央図書館で司書を務める「アリーヤさん」という女性です。イラク戦争が起きていた2003年に、所蔵本を守ろうと奮闘した方です。アリーヤさんがいたからこそ、3万冊の本は守られたのでした。

本書は小さな子どもでも読めるよう絵本仕立てになっています。描いたのはニューヨーク在住の画家、スタマティーさんです。アリーヤさんの思いが生き生きと伝わってきます。私はCNNなどのニュースでバスラの戦況を訳したことがあります。しかし、映像の向こうには、アリーヤさんのように、非常に苦労をしながら自分たちの大切なものを守ろうとする市民がいるのですよね。そのことを忘れてはならないと思います。

世界に目を転じれば、イラクやシリア、アフガニスタンなど、まだ戦争が続いている国はたくさんあります。戦争の不気味な足音が感じられる出来事も起きています。私たち一人一人に何ができるのか、どう行動すべきか。この一冊から大きな課題を与えられたと私は感じています。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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