INTERPRETATION

第333回 First Come First Served

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

先着順ということばは、フリーランス通訳業において大切です。いったん請け負った仕事がある場合、どれほどその後に魅力的な仕事のオファーが来ても、最初にイエスとお答えした相手の業務をキャンセルするのはマナー違反だからです。「後から来た仕事の方が負担が軽い」「通訳料が高い」「拘束時間が少ない」「自分の得意分野」など、気持ちがそちらに傾く要素がたとえ山のようにあったとしても、とにかく最初に来た仕事を断ることは、自分の信頼に関わります。「バレなければ嘘も方便なのでは?」と思うことすら許されません。狭い業界です。片方をキャンセルしてもう一つを請け負えば、いずれ発覚します。信用を築き上げるのは地道な一歩で長年かかります。信用を失うのは一瞬なのです。

私はデビュー当初、通訳業務前日になって突然どうしようもない不安に襲われ、「もう絶対この仕事はできない」「そもそも私が受けるには難易度が高すぎる」「現場に行ってこんな程度の実力を露呈すればお客様に迷惑がかかる」「私が行かない方がかえってマシなのではないか」と猛烈に思ったことがあります。当時はメールのない時代でしたし、携帯電話も普及していませんでした。連絡先は日中のオフィス電話番号のみです。そちらに真夜中近く、いてもたってもいられなくなり電話をかけたのでした。

コーディネーターが運よく残業をしているのではないか?

大きなエージェントなので、誰か一人ぐらいは残っているはずだ。

とにかくこちらの事情を説明して、降ろさせてもらおう。

「やっぱり私には実力的に無理です。ごめんなさい」と誠意を持って謝罪すれば、エージェントのことだもの、急きょ私などよりうんと実力の高い大ベテランの先輩に依頼して、お客様にも迷惑がかからないはず。

このように思いながら、相手が出るまで受話器を握りしめて待ったのでした。

もちろん、時間が時間でしたから、誰も出ません。私の中では名案も実行不能です。

さあ、こうなると諦めるしかありません。やれるところまで予習もした。最後になってジタバタしてエージェントにも電話をかけた。でもつながらなかった。ならばもう今の状況を直視するしかない。こうなったらあとは明朝、通訳現場へ向かい、勇気を持って出来るだけのことをやるしかないと、良い意味で達観できたのでした。

いざ通訳が始まってみると、夜中までのあの恐怖心は何だったのかというぐらい、スムーズな内容でした。あそこまで恐れることはなかった。大騒ぎした自分は何だったのだろう。あれほど神経をすり減らして夜中の電話に何十分も費やしたぐらいなら、あの時間を勉強に当てればよかったと猛省しました。

もう随分前の体験談ですが、この出来事だけは今でも強烈に覚えています。もしあの時、エージェントが残業中で私の連絡を受け、私がゴネて業務から交代させていただいたら、おそらく私はそれから程なくしてこの業界を去っていたことでしょう。「私には通訳者になる資格などない」「私のレベルとは違いすぎる」「私がいなくても誰かがやってくれる」という具合に、自己否定や他力本願、それと同時に自己正当化をしたと思います。そして何十年経っても「自分は悪くなかったのだ」と言い訳をし続ける人生を歩んでいたはずです。

最初に来た仕事は責任を持って請け負う。

つべこべ理由は言わない。

真正面から真摯に向き合い、全力を尽くす。

それでも失敗したら誠意を持って謝罪し、反省し、再発防止を考える。

この繰り返しを積み重ねるしかないのだと私はあの出来事から教訓として得ました。そしてそれをひたすらひたすら続けながら今にいたっています。

(2017年12月4日)

【今週の一冊】

「アメリカ大統領百科」 DK社編、大間知知子訳、原書房、2017年

DKとはDorling Kindersley社のこと。色鮮やかな図鑑を発行する出版社として有名です。1980年代には様々なモノの断面図を解説した本がベストセラーになりました。通訳の勉強を始めたばかりの私は、モノを鳥瞰図的に見られるこの図鑑にすっかり魅了され、本来の通訳勉強そっちのけで見入っていたことを思い出します。

今回ご紹介する一冊は、アメリカの歴代大統領を紹介するものです。もちろん、現大統領も取り上げられていますので、まさに最新版の一冊です。また、大統領のプロフィールだけでなく、ファーストレディーのことや、ホワイトハウス、大統領の別荘に大統領の利用するエアフォースワンや各種車両についても説明があります。そうした大統領の使うモノにもそれぞれ歴史があり、歴代の大統領が導入してきているのですよね。そう考えると、どの国であれ、「歴史」というものには重みがあり、その重みの上に今の私たちは生きているのだと思わされます。

ところで10月にイギリスへ出かけた際、知人と数年ぶりに会うことになりました。知人は日本政治に関心があり、歴代首相や日本の選挙など、知識豊富です。しばらく日本に来ていないとのことなので、知人が喜びそうなお土産を持参しようと私は決めました。その頃はちょうど10月下旬の選挙直前でしたので、私は国会議事堂の売店へ向かいました。小さな売店ですが、国会見学者が必ず立ち寄る場所です。覗いてみると、歴代首相の似顔絵が描かれたグッズや食べ物もあります。早速数点買い求めてプレゼントしたところ、満面の笑顔が返ってきました。ちなみに日本の歴代首相の数もなかなかのものです。ご興味がある方はぜひ永田町の売店へどうぞ。

最後にもう一点。放送通訳のニュースではleaderという単語が出てきます。大統領や首相など国家元首を指します。同時通訳の際には、すぐに具体的なタイトルの和訳を付けなければなりません。もう一つ私が難儀するのはpresidentということば。「大統領」「国家主席」「議長」など色々な訳語があります。その都度暗記です。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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