INTERPRETATION

第344回 苦戦した通訳

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

同時通訳や逐次通訳の場合、どのようなお客様なのか、どういった内容が飛び出すのかは当日になるまでわかりません。ある程度の予測をしながら、それこそ受験勉強時のヤマかけのように予習をしますが、予習自体がそもそも「ここまでやれば終わり」というものではないのですよね。当日に最大限の力を発揮できるよう念には念を入れてリサーチをしますが、どれだけ経験を積み重ねても私の場合、当日が近づくと不安感は高まります。放送通訳の場合はレポーターの顔ぶれも一定しており、話し方にもいずれは慣れてきます。けれどもビジネス通訳の場合、何が出てくるのかはふたを開けてみるまでわからないのです。

直前まで隙間時間を見つけながらひたすら予習をした結果、「思ったよりもスムーズに訳せた」「想像していたよりもなじみやすい内容だった」という思いで業務を終えられたときは本当に幸せです。お客様のお役に立てたという気持ちや「今日は詰まったり間違えたりせずに済んだ」という安ど感で満たされるからです。

けれどもいつもそうとは限りません。いえ、むしろ「パーフェクト!」などという日は私の場合はほとんどありません。たいていは帰路の電車内で一人反省会をしながら「うーん、なぜあの基礎単語が訳せなかったのかしら」「もう少しすっきりした訳文にすればよかった」「あの場面でもっと気を利かしてお手伝いできれば喜ばれたのに」など、通訳業務だけでなく随行時の自分の振る舞いに対する反省なども次々と出てきます。けれども時間を戻すことはできません。今日の反省点を次に生かし、同じミスを二度としないように誓いながら前に進むしかないのですね。

一方、「訳出自体は無事に進んだものの、通訳現場の環境で苦しんだ」という経験を私は何度かしています。いくつかご紹介しましょう。

一つ目は、とあるセミナー通訳でのこと。会場は都内の高層ビルの上層階にありました。窓から外を眺めると東京湾が見渡せ、下の方には街中を行きかう人々が小さく見えます。広いセミナールームでの逐次通訳でした。

ところがその当時はとある問題をめぐって国の情勢が動いていた時期でした。某団体がその問題に対して反対意見を述べるべく、スピーカーを使い大型車両で主張を繰り広げていたのです。音というのは上に抜けますので、地上から響くその大音量は私のいた会場にも聞こえてきました。

集中しているときは周囲の雑音もさほど気になりません。しかし、いったん気にかかってしまうとそこで一気に集中力は下がります。「ん?あの大ボリュームは何?」と思ったが最後。セミナーの英語を聞いてメモを取り逐次通訳に備えつつも、耳にはシュプレヒコールのような大音量が階下から聞こえてきます。セミナー内容とは全く関係のない話題が頭の中で錯綜してしまい、大いに通訳では苦労しました。その日は肉声での逐次通訳でしたが、こうしたケースを考えると、やはり話者の方にはマイクを付けていただき、通訳者のイヤホンに直接入る方式の方が確実だと思ったのでした。

もう一つも「音」に関するものです。その日はビジネスミーティングで、訪問先の日本企業側も英語で応対なさっていました。よって私の通訳を必要としたのは海外からのクライアントさんをお世話なさっていた日本の随行の方おひとりでした。よってこの日は英日のウィスパリングが私の仕事でした。

小さな会議室だったのですが、同じ部屋の中で時々激しい咳をする方がいらっしゃいました。時期は冬でインフルエンザや風邪が流行していたころです。一番つらいのは

咳が出てしまうご本人であることはもちろん承知しています。けれども、大きな咳というのは、その瞬間、部屋の中の他の肉声がかき消されてしまうのですね。この日も肉声の英語をそのままウィスパリングしていましたので、私の解釈が途切れてしまうという状況に直面しました。内心焦ったのを覚えています。

ちなみにとある音楽評論家の方が、クラシック音楽のコンサート会場でどうしても咳が出てしまう場合、手のひらよりもハンカチで口元を覆った方が音は静かになるとおっしゃっていました。通訳者がいる会議ではそうしていただけるとありがたいなあと思った次第です。

苦労した通訳3つ目は「西日」です。こちらも同じくビジネスミーティングでした。その会場は窓が東側にあり、道路に面したビルの5階にありました。時間帯は午後です。窓は全面ガラス張りで、窓側にホワイトボードがあり、机のPCからパワーポイント映像が映し出されていました。

最初のうちはよかったのですが、少しずつ日が沈んでくると、通りを挟んだ向かい側のオフィスビルの窓に西日がギラギラと反射していったのです。しかもこの日もやはりウィスパリングで、プレゼンをしている方は窓を背に着席なさっています。私の角度から見ると、まるでご本人の後ろに後光がさしているようになり、それはそれはまぶしくて仕方ありませんでした。顔の表情が一切見えなくなってしまったのです。

私は通訳をする際、必ず話し手の表情や口元などに注目し、non-verbal messageからヒントを得るようにしています。この日もそうでした。けれども西日でその方のお顔が暗くなってしまうと手掛かりは大幅減になってしまいます。私が少しずれれば良いのですが、そうすると今度はウィスパリングをして差し上げている方の耳元から離れてしまいます。支障がない範囲でモゾモゾと椅子の上で動いていた私は、傍から見たらアヤシイ動きをしていたかもしれません。

幸いミーティングは「後光発生」から間もなくして終了して事なきを得ましたが、長引いてますますまぶしくなったのであれば、中断をしてでもブラインドを下ろしていただくようお願いした方がパフォーマンスには支障が出ないのではと思いました。

単なる語学的な予習だけでは立ちいかなくなることもあるのが通訳という世界です。毎回の経験を積み重ねて、次はもっと良い通訳をしていきたいと思います。

(2018年3月5日)

【今週の一冊】

「世界のリノベーション」日経アーキテクチュア編 日経BP社、2017年

街中を歩いていてもついつい建築物に目がいくほど「建物」が好きです。ビルの入り口にある「定礎」の石碑にも注目しますし、階数を数えたり柱やガラス窓を眺めたりすることもあります。私にとって建築にまつわるすべてがワンダーランドです。

先日ロンドンへ行く機会があり、現地でも様々な建物を堪能してきました。イギリスは建築物がグレードでランク付けされており、いったんその認定を受けるとむやみに手を加えることはできません。石造りということもあり数百年前に建てられた建造物が今も現役で使われているのです。そうしたことから内部を改修したり、外観を損なわない範囲で雰囲気を変えたりしているのがわかります。数年前の五輪を機にロンドンではテムズ川の東部が再開発され、現地ではモダンなビルやマンションが立ち並びます。

今回ご紹介する一冊はリノベーションに関する書籍です。イギリスの建物は出ていませんが、世界各地で取り組まれた改修・改築の様子が写真付きで掲載されています。特に興味深かったのはアジアにおける建築・リノベ事情でした。個人的に注目したのはシンガポールのナショナルギャラリー。かつての最高裁判所と市庁舎を一つにつなぎ、2015年に美術館としてオープンしています。外観は重厚な建物ですが、中は極めてモダン。こうした空間でのんびりと美術鑑賞する休暇も良いでしょうね。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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