TRANSLATION

第9回 金融翻訳者の役割とは

土川裕子

金融翻訳ポイント講座

こんにちは。今回は第6~8回に使用した課題を見ながら、金融翻訳者の役割について考えてみたいと思います。

第6~8回をきちんと読んでくださった人の中には、「細かいなあ」とか、「ここまで踏み込んで変えてしまっていいのかなあ」などと感じた人がいるかもしれません。学習段階にある人は、特にそうでしょう。もちろん、仕事によっては「原文に忠実に」という指示が与えられたり、社内でざっと閲覧するだけの資料などは、「多少日本語を犠牲にしてもいいので、とにかく速く仕上げて」と言われることもあります。しかし逆に言えばこれは、特に指示がない限り「日本語としておかしいものは出すな」ということです。

契約・法律、IT、医療、特許などの翻訳は、その分野に精通した人が目にするケースが多いと思われるのに対し、金融翻訳は、専門知識を有する金融のエキスパートから一般投資家まで、様々な人々が読む可能性があります。つまり専門家はもちろん、「一般消費者」にも受け入れられる、分かりやすく自然な日本語でなければならない、ということです。

「分かりやすく自然な日本語」――よく言われることですが、われわれ翻訳者にとって、具体的には何を意味しているのでしょうか。

ここで、前回の課題を見てみましょう。なるべく原文に忠実に訳してみます。

Since the U.S. Federal Reserve (Fed) ended its quantitative easing (QE) program in November 2014, followed by a rather restrained interest-rate “liftoff” in December 2015, U.S. equity markets have been essentially flat through the first calendar quarter of 2016, with a return to more normal volatility. But that go-nowhere performance masks some of the sharp swings that have occurred since the Fed ended QE, particularly during the most recent quarter.

米国の連邦準備制度理事会(FRB)が2014年11月に量的緩和(QE)プログラムを終了し、続いて2015年12月に抑制気味の金利の「リフトオフ」を実施して以降、米国の株式市場は、より正常なボラティリティ(株価変動性)に戻りつつ、2016年第1四半期まで実質的に横ばいであった。しかしその横ばいのパフォーマンスの裏には、FRBがQEを終了して以降、特に直近四半期の間に生じた一部の鋭い変動が隠されている。

内容を考慮して少し手を加えましたので、(金融専門の部分はともかく)大体の流れは理解できるかと思います。よって「英文和訳」としては合格かもしれません。しかしこれを、「日本企業が日本人(投資家)向けに発表した文章」として、「一般消費者」の気持ちで読んだとしたらどうでしょうか。ほとんどの人が日本語に違和感を持つのではないかと思います(上記はいささか大げさな例ではありますが)。

もっと分かりやすく言いましょう。上記の文章が日本経済新聞に載っていたらどうでしょうか。「日経、大丈夫?」となります。

もちろん、実際にはそんなことはありえません。例えば上記の訳をわたしが納品したとしたら、まずは翻訳会社の段階で相当な直しが入り、日経への納品後もさらに手が加えられて、最終的には「100%日経の顔」、すなわち日経記者が書くのと同水準の日本語となって世の中に出て行くはずです(結果として、わたしの翻訳者としての評価は下がるでしょう)。

要するに、われわれ金融翻訳者は、経済新聞のために翻訳をするならば経済新聞記者、株式ファンドの運用報告書の翻訳をするならばファンドマネジャーが書いた文章として違和感のない日本語を書かねばならぬ、ということです。証券会社のプレスリリースを訳すなら、その会社が最初から日本語でプレスリリースを書く時と同じ体裁・質の日本語が求められます。

訳文(商品)の最終的な使用目的を考えれば当たり前のことなのですが、翻訳そのもののスキルや、原文の専門的な部分にのみ関心が向いてしまって、この点を見逃している人もいるように思います。

家の中で一人、目の前にある自分の訳文と向き合っていると、直接の納品先である翻訳会社の評価ばかりが気になります。しかし本当のところ重要なのは、「翻訳会社の先にいる顧客が満足するか」、さらに言えば「顧客の先にいる最終消費者(最終的に翻訳を読む人)が満足するか」なのです。

もちろん実際には、ファンドや証券会社の現場で働いている人々と完全に同じ知識や技能を身につけることは難しく、「ファンドマネジャーと同じ日本語を書け」と言われたところで、簡単には行きません。クライアントや翻訳会社との相性の問題もあります。それに通常、フリーランスの翻訳者は多数の顧客のニーズに応えなければならないため、すべての人を満足させられる水準に到達することは不可能かもしれません。それでも、翻訳という専門サービスを提供するプロ、そして「物書きのプロ」として、私たちは依頼元の希望にできる限り沿った成果物を提供する(よう努力する)義務があるのではないでしょうか。

私たちはどうしても「翻訳業界」の単位で物事を考えがちになりますが、翻訳サービスの最終目的は、「顧客の活動を支える材料を作ること」にあります。よって、金融なら金融業界、法律なら法律業界の中で、自分がどのような役割を果たしているかを常に考えながら、翻訳というサービスを提供すべきである、と思います。

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理想論を語ってしまいました。日々、理想を現実化するべく努力を続けつつも、実際にはありとあらゆる困難が金融翻訳者を襲います。今回はマジメに語り過ぎてしまいましたので、次回は少し息抜き。金融翻訳者の実態についてお届けできればと思います。お楽しみに。

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記事を書いた人

土川裕子

愛知県立大学外国語学部スペイン学科卒。地方企業にて英語・西語の自動車関連マニュアル制作業務に携わった後、フリーランス翻訳者として独立。証券アナリストの資格を取得し、現在は金融分野の翻訳を専門に手掛ける。本業での質の高い訳文もさることながら、独特のアース節の効いた翻訳ブログやメルマガも好評を博する。制作に7年を要した『スペイン語経済ビジネス用語辞典』の執筆者を務めるという偉業の持ち主。

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