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ザ・ショウ・マスト・ゴー・オン

葛生 賢治

考えることば ことばで考える

日本ではあまり知られていないアメリカのテレビアニメで「キング・オブ・ザ・ヒル(King of the Hill)」という番組がありました。90年代の終わりから13シーズンに渡りFOXチャンネルで放送された大人気アニメです。私もニューヨークで暮らしていた時期に放送されていたのでよく見ていました。

テキサス州の片田舎でプロパンガス会社に勤める中年男ハンク・ヒルとその家族の日常を描くこのアニメ、アメリカ南部のコテコテに保守的なアメリカ人の毎日をコミカルに描いていて、東洋の島国出身の私には新鮮な驚きに満ちた番組でした。キャラクターたちがどれも日本では絶対に人気が出そうにない、かわいくない絵柄で描かれているのも特徴的です(興味のある方は検索してみてください)。

とても印象的だったエピソードに「ボビー・スラム(Bobby Slam)」というタイトルの回がありました。

ハンクの息子・ボビーはずんぐりとした肥満体型の13歳の男の子。隣の家に住むラオス人のスパヌセポンさん一家の一人娘・コニーと同じ学校に通い、二人は親友です。ある日、ボビーは学校でレスリング部に入部します。どう見ても運動音痴なボビーが「男らしいスポーツ」を始めた、とハンクは息子の活躍に大喜び。

同じ頃、ハンクの妻・ペギーはボビーが通う学校から女子バスケ部のコーチ役を頼まれます。子供の頃、男の子に混じってベースボールをやりたくても「女だから」という理由でのけものにされていた彼女は、女子の活躍を後押しできると張り切って引き受けますが、彼女を待っていたのは男女差別の現実。男子の部活のために体育館のスペースを譲るよう強要され、女子バスケ部には新しいボールを買う費用さえ与えられません。

怒り心頭に達したペギーは反撃に出ます。校長にかけあって女子バスケ部にいたコニーをレスリング部に入部させる許可を取り付けることに成功。実は、コニーが入部すれば「男女の壁を打ち破った革新的なヒロイン」となり、バーバード大学への入学に有利に働くと策略を巡らした彼女の両親が学長に直談判し、「うちの娘を入部させなければ男女差別で学校を訴えるぞ!」と脅迫したのでした。

典型的な南部のマッチョ男であるレスリング部のコーチは面白くありません。校長の命令でしぶしぶコニーを入部させたものの、仕返しを試みます。それまで選抜チームには部員の誰でも入れたのですが、「新しいメンバー」が入ったからという理由で、チームへの選抜戦を行い、一番弱かった部員一人を選抜チームから脱落させる、と言い出しました。そしてコニーの対戦相手にボビーを選んだのです。ほとんど練習をせず休憩所でゲータレードばかり飲んでる肥満児のボビーに勝ち目はありません。

ボビーの母・ペギーはショックを受けます。コニーの活躍で「男女平等」を実現したい反面、それが実現すれば我が息子ボビーがチームを去るはめに。父親のハンクは「男女平等も素晴らしいが、それによって息子が外されるとなれば話は別だ」と不満顔。コニーの両親は「試合の様子をビデオに撮ってハーバード大受験の時の資料にしよう。ひゃっほー!」と浮かれ顔。ボビーは南部の田舎町で、コニーに勝てば「男のくせに女に勝って喜んでる奴」となるし、負けたら負けたで「男のくせに女に負けた奴」と呼ばれるというジレンマに直面します。

私は番組を見ていて、これはどこかで見た光景だと思いました。いまや世界中で繰り広げられている政治の混乱そのものではないでしょうか。「保守」の名の下にジェンダー差別・人種差別を誘発させる声、それを徹底的に批判するリベラルな声が、実現可能な理念よりも感情の着火を原動力としてワイドショー的に燃え上がり、消費され、そこに様々な裏の思惑が入り込む危険性をはらむ現状。それぞれの「言っていること」と「やっていること」が乖離しているため、どちらを選ぶこともできないジレンマ。

さて、ボビーとコニーはどうなったでしょう。選抜試合の当日、教師や親、部員たちが見守る中、二人はプロレス技を次々と掛け合い、一大レスリングショーを繰り広げたのです。コニーにバックブリーカーを決めるボビー。コニーはボビーの頭を掴んで膝蹴りで応酬。今度はボビーがパイプ椅子で反撃。コニーは指先から見えない電波を出してボビーを催眠状態に。最後はボビーがポケットからケチャップを取り出し、自分の顔にかけて「やられたー!目が見えないー!」と絶叫。最初は呆気にとられていた観客も、途中から何が行われているのか理解して、歓声を送ります。もっとやれー、という具合。前日にこっそり打ち合わせをしていたボビーとコニーは、馬鹿げた状況に追い込まれた自分たちの姿をパロディにすることで「勝利」したのでした。

正義というものが「言っていること」と「やっていること」に分裂してしまう現実は、劇場型現実とでも呼べるかもしれません。全てが舞台の上の演技のようで、どこか真実味がなく、舞台裏があるような感覚。それでいて、舞台を降りようとしても、どこに「本当の現実」があるか分からない感覚。その中で出口を見つけるには、舞台から降りる努力をするより「舞台の上の演技だと理解した上で演技を続ける」方が近道なのではないでしょうか。

お笑いの世界に「一周回って笑える」という表現があるように、パロディにはフェイクをフェイクだと確実に見抜くことで緊張を緩和し、笑いという熱を生じさせます。そしてその熱は違う立場にある人たちを巻き込む力を持ちます。

ボビーとコニーが「演技」をする姿に、その場にいた全ての人間が分断を超えて熱狂し、一緒になって歓声をあげたのは偶然ではないはずです。

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<今日のことば>
このエピソードのタイトル「Bobby Slam」はプロレス技のBody Slamとかけたダジャレです。Slamは「激しく打つ」という意味です。

「劇場型現実」はtheatrical realityと訳すことが出来るでしょう。もちろん、こういう単語があるわけではありません。「劇場型政治」theatrical politicsをもじって作りました。

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記事を書いた人

葛生 賢治

哲学者。
早稲田大学卒業後、サラリーマン生活を経て渡米。ニュースクール(The New School for Social Research)にて哲学博士号を取得した後、ニューヨーク市立大学(CUNY)をはじめ、ニューヨーク州・ニュージャージー州の複数の大学で哲学科非常勤講師を兼任。専門はアメリカンプラグマティズム。博士論文の表題は「ジョン・デューイ哲学における宗教性」。

現在は東京にて論文執筆・ウェブ連載・翻訳活動に従事。
最新の発表論文はデビッド・リンチ、ジョン・カサヴェテスの映画分析を通じたリチャード・ローティー論。趣味は駄洒落づくり。代表作は「クリムトを海苔でくりむとどうなるんだろう」。

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