TRANSLATION

こなれた訳文にする工夫(3)

宮崎 伸治

出版翻訳家による和訳レッスン

前回に引き続き、こなれた訳文にする上で翻訳者がぶつかるジレンマをどう克服すればいいかについて、既刊訳書から実例を挙げて考えてみます。

例題5は、ある女性患者が心理カウンセラーのところに相談しにいっているところが書かれています。It was the first time she had dreamed it for about a year.をどう訳せばこなれた訳文になるかに気をつけて訳してみてください。

例題5

A patient reported a dream that had recurred throughout her life. (中略)

Sometime later she reported the dream.  It was the first time she had dreamed it for about a year.

ある翻訳者の例を見てみましょう。

  • ある翻訳者の訳

ある夢が繰り返し現れるという女性の患者がいた。(中略)

しばらくたってから、彼女はまたその夢について訴えてきた。彼女にとって1年もの間、ずっと同じ夢を見たのは初めてのことだった。

この翻訳者は、It was the first time she had dreamed it for about a year.を「彼女にとって1年もの間、ずっと同じ夢を見たのは初めてのことだった」と訳しています。the first timeという言葉があるので、それに引きずられて「初めてのことだった」としているのでしょう。たしかにthe first timeをそう訳してもいいこともあります。しかし「彼女にとって1年もの間、ずっと同じ夢を見たのは初めてのことだった」では読みにくくないでしょうか。

こういう場合は、しばらく経ってから(原文がどうであったか思い出せないくらい時間を空けたほうがいいでしょう)訳文を読み返してみましょう。するとここでいう「初めてのことだった」というのが、日本語では「~ぶり」ということに気づくかもしれません。なまじっか原文のthe first timeが頭に残っていると、なかなか「~ぶり」という言葉が出てこないかもしれませんが、原文から離れて意味だけを考えてれば、日本語として読みやすい表現が浮かんでくることがあります。そこで私はこの箇所を以下のように訳しました。

  • 宮崎訳

ある夢を繰り返して見るという女性患者がいた。(中略)

しばらくして、彼女はおよそ1年ぶりに同じ夢を見たと言ってきた。

次に例題6を見てみましょう。

次の英文は赤ん坊が経験することを時間の経過とともに説明されたものです。赤ん坊は妊娠したときに「細胞的誕生」を迎え、9ヶ月ほどお母さんのおなかの中にいたあと「肉体的誕生」をし、寒さ、騒音、光、暗闇…といった恐ろしい状態に押しやられることになります。その後、どうなるでしょうか。それが書かれたのが次の英文です。

ここで問題となるのは、’stroking’ とPsychological Birthをどう訳すかです。

例題6

Within moments the infant is introduced to a rescuer, another human being who picks him up, wraps him in warm coverings, supports him, and begins the comforting act of ‘stroking’.  This is the point of Psychological Birth.

まずある翻訳者の訳文を見てみましょう。

  • ある翻訳者の訳

この経験の直後に、新生児に救いが与えられる。だれかがとり上げて、暖かいおおいでつつみ、支えてくれ、「さする」という気持ちのよい活動も始めてくれる。これが心理的誕生である。

この翻訳者は、‘stroking’を括弧付きで「さする」と訳しています。たしかにstrokingは「さする」という意味の単語ですが、その前から読んでみてください。暖かいおおいでつつみ、支えてくれ、「さする」という…となっていますね。

では、なぜ「さする」だけが括弧付きになっているのでしょうか。この翻訳者は、英文でクオーテーションマーク付きだから、それに合わせて括弧付きにしたのだと思われます。しかし、「さする」という訳文だけを読むと、なぜ「さする」だけが括弧付きになっているのか読者には伝わらないのではないでしょうか。

じつはstrokeというのは心理学では「ストローク」という専門用語として扱われており、言語・非言語すべてを含めて「存在を認める行為」という意味で使われています。

昔は専門用語に関しては専門用語辞典等を調べなければなりませんでしたが、今や便利になったものです。ネットで検索すれば、専門用語であっても出てくることがありますので、専門用語かどうか迷うことがあったら、一度、ネットで調べてみるといいでしょう。

ここでは「ストローク」だけでもいいのですが、私はその元の英単語は何なのかも書き出し、さらにその一般的な定義もつけておきました。

ここではもう1点、Psychological Birthの訳し方にも気をつけましょう。上の翻訳者は括弧をつけずに「心理的誕生」と訳していますが、この言葉自体はあまり一般的な言葉とはいえず、専門用語的に使われているものです。英文においてもpとbをそれぞれ大文字にしてあることからもそれがうかがえます。そこで私は括弧付きにしました。

以上の2点を踏まえて訳すと次のようになりました。

  • 宮崎訳

ほどなく新生児は救い手に出会う。その救い手は、自分を抱き抱え、温かい毛布で包み、支え、「ストローク(stroke =なでる、愛撫する)」という快い行為をしてくれる。これが「心理的誕生」に当たる。

今回は、いったん訳した後、時間を空けてから訳文を読み直す重要性と、原文にクオーテーションマークや大文字が使われているときの注意点を実例をあげて考えてみました。

 

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著書に『出版翻訳家なんてなるんじゃなかった日記』(三五館シンシャ)、訳書に『7つの習慣 最優先事項』(キングベアー出版)など約60冊の著訳書がある。

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記事を書いた人

宮崎 伸治

大学職員、英会話講師、産業翻訳家を経て、文筆家・出版翻訳家に。産業翻訳家としてはマニュアル、レポート、契約書、パンフレット、新聞記事、ビジネスレター、プレゼン資料等の和訳・英訳に携わる。
出版翻訳家としてはビジネス書、自己啓発書、伝記、心理学書、詩集等の和訳に携わる。
著訳書は60冊にのぼる。著書としての代表作に『出版翻訳家なんてなるんじゃなかった日記』(三五館シンシャ)が、訳書としての代表作に『7つの習慣 最優先事項』(キングベアー出版)がある。
青山学院大学国際政治経済学部卒業、英シェフィールド大学大学院言語学研究科修士課程修了、金沢工業大学大学院工学研究科修士課程修了、慶應義塾大学文学部卒業、英ロンドン大学哲学部卒業および神学部サーティフィケート課程修了、日本大学法学部および商学部卒業。

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