TRANSLATION

固有名詞は”決まり訳”を確かめる

宮崎 伸治

出版翻訳家による和訳レッスン

前々回、前回と聖書に関するお話をしました。具体的には、聖書を自宅に所有しておこうという話と、時間的余裕があれば聖書の知識を身につけようという話でした。聖書に関連してもう一つ述べておきたいことは、聖書の関連用語は“決まり訳”がある場合が多いので、英文中に人名や地名などの固有名詞が出てきたら、“決まり訳”を確かめるべきだということです。

私が30代の頃に受けていた仕事はすべて超特急の仕事でしたので、英文中に出てきた固有名詞の“決まり訳”が思いつかなかった場合、とりあえずその英語表記から発音を想定し、それを仮の訳語として、残りの英文に取りかかっていました。最初から完成した訳を紡ぎ出していく翻訳家もいるでしょうが、私はまずサササっとラフに翻訳をしあげて、それを5度くらい推敲して訳を完成させるタイプだったのです。どちらのタイプが良いというのはありませんので、自分の性格に合った方法でしあげればいいと思いますが、私のようなタイプの人(最初にラフ翻訳をし、それを推敲して完成訳にしあげる人)は、いったん日本語にしたからといって気を抜かずに固有名詞に“決まり訳”が存在しているか推敲しているときに確認すべきです。

ここで私の失敗談をお話ししたいと思います。いつものとおり超特急の仕事を引き受けた私は同時通訳ならぬ“同時翻訳”をするかのごとく、英文を読みながらそのままパソコンに訳文を打ち込むという作業に明け暮れていました。

英文の中にJordanという名前の川がでてきたのですが、いつもの癖で「決まり訳があるかどうか分らないけれど、推敲するときにチェックすればいいやと思い、とりあえず「ジョーダン川」と訳しておいたのです。いったん訳文を提出しても、ゲラ(試し刷り)のチェックはさせていただけるのが普通ですし、ゲラチェックも2回以上させてもらえる出版社もありますので、「まだ後でチェックする機会はある」という気の緩みもありました。

しかし、物事がどうなるかは神のみぞ知ることです。驚くことに、出版社の都合で出版社側のみでゲラチェックすることとなり、ゲラチェックさせてもらえなかったのです。そして運の悪いことに、「ジョーダン川」と仮に訳していた箇所が槍玉にあがりました。というのもJordan Riverには「ヨルダン川」という決まり訳がある川だったからです。「ひどい訳をする翻訳家」とい悪い噂は社内だけでなく社外の人まで伝えられてしまいました。当時の私でも「ヨルダン川」は知っていたのですが、Jordan Riverが「ヨルダン川」と結びつかなかったために大恥をかいたのでした。

聖書関連用語の場合はもう一つ気をつけることがあります。例を挙げますので、次の英文を訳してみてください。

When Joseph Cardinal Bernadin, the beloved Roman Catholic archbishop of Chicago, was dying of cancer,・・・

英語名は日本語と異なり、ファーストネームとファミリーネーム以外にもミドルネームがあることがあります。私はJoseph Cardinal Bernadinという名前を見たとき、真ん中のCardinalはミドルネームなのだろうと思って「ジョセフ・カーディナル・バーナディン」と訳していたのです。私が最初に提出した訳は以下のようなものでした。

「シカゴのロマン・カトリックの大司教ジョセフ・カーディナル・バーナディンが癌で死にかけていたとき~」

すると校正者から次のように指摘されたゲラが返ってきました。

「Cardinal →大司教、Joseph→ヨセフ。司教とか大司教という役職があるのはロマン・カトリックだけなので、特に「カトリックの」とかする必要はないでしょう」

この例からもお分かりとおり、聖書用語の場合は、人名に職名もつけられることがあるので注意が必要なのです。しかも人生そのものも「John」が「ヨハネ」だったり、「Job」が「ヨブ」だったり、「Lazarus」が「ラザロ」だったり…。たかが固有名詞だと思って、けっして侮ってはならないのです。

さて、固有名詞の訳し方についてお話しして来ましたが、これは聖書関連用語に限ったことではありません。人名にしても地名にしてもその他もろもろの固有名詞にしても様々な分野に存在します。

聖書関連の用語であれば、紙ベースの辞典や事典、参考書がたくさん出ていますので、紙ベースのもので確認することをお勧めします。可能であれば、用語集も自宅に所有しておくとよいでしょう。聖書以外の固有名詞についても紙ベースの辞典や事典、参考書が見つかれば、それで確認を取るのが理想的ですが、必ずしも紙ベースのものが見つかるとは限りません。しかし今は便利になったもので、ネットででも確認できるようになりました。ただ、ネットの情報は誰が書いたものかが不明なものも多いので、その分、信頼性も紙ベースのものよりも低いと考えられるので、少なくとも複数(多ければ多いほどいいです)のサイトで確認したほうがいいでしょう。

今回は固有名詞の訳し方についての注意点について述べてみました。

ひろゆき氏等多くのコメンテーターに対して翻訳業界の現状を語る番組に出演した際の動画が無料で視聴できる。
https://abema.tv/video/episode/89-66_s99_p3575(ABEMA TV)。

また「大竹まことのゴールデンラジオ」に出演したときのようすが、次のリンク先のページの「再生」ボタンを押すことで無料で聴くことができる。
http://www.joqr.co.jp/blog/main/2021/03/110.html

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記事を書いた人

宮崎 伸治

大学職員、英会話講師、産業翻訳家を経て、文筆家・出版翻訳家に。産業翻訳家としてはマニュアル、レポート、契約書、パンフレット、新聞記事、ビジネスレター、プレゼン資料等の和訳・英訳に携わる。
出版翻訳家としてはビジネス書、自己啓発書、伝記、心理学書、詩集等の和訳に携わる。
著訳書は60冊にのぼる。著書としての代表作に『出版翻訳家なんてなるんじゃなかった日記』(三五館シンシャ)が、訳書としての代表作に『7つの習慣 最優先事項』(キングベアー出版)がある。
青山学院大学国際政治経済学部卒業、英シェフィールド大学大学院言語学研究科修士課程修了、金沢工業大学大学院工学研究科修士課程修了、慶應義塾大学文学部卒業、英ロンドン大学哲学部卒業および神学部サーティフィケート課程修了、日本大学法学部および商学部卒業。

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