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始めの一歩

工藤浩美

テンナインヒストリー ~挑戦への軌跡~

 

 

テンナインコミュニケーションを設立して、早いもので18年の歳月が流れました。ずっと前だけを見つめて走ってきましたが、最近年齢のせいでしょうか?今、自分の席から一生懸命仕事をするスタッフの背中を眺めていると、ふと設立当初のことを思い出す機会が多くなりました。社員も増え、頼もしいリーダーも増え、直接指導をする機会も減りました。自分の中に残っている記憶がシャンパンの泡のように消えてしまう前に、「テンナイン・ヒストリー」に、これまでの道のりを記したいと思います。

テンナイン・コミュニケーションを設立したのは、2001年7月11日です。

私はそれまで2社で合計11年半通訳コーディネーターとして仕事をしてきました。今振り返るとほぼ毎日終電まで仕事をしていました。やってもやっても仕事は終わりませんでした。あまりに仕事が多くて、インカムを付けて電話をしながら、両手を空けてメールを打つというような毎日でした。ある日仕事が終わらなくて終電を逃してタクシーを利用したことがあります。「なぜタクシーを使うのか?毎日終電で帰って、翌日始発で来て仕事すればいいじゃないか?」と怒られたこともあります。今では考えられないですね。そんな働き方は永遠に続くはずもなく、ある日「会社を辞めよう」と決心しました。それはまるで木から葉っぱが一枚、はらりと落ちるような自然な感覚でした。と同時にドキドキと、自分の鼓動が聞こえました。「今私は大変なことを考えている、でもそれは素晴らしい決心だ」と思うようになりました。決めるまでは時間がかかるけど、決めたらすぐに行動に移したくなるのが私の性格です。後の事は全く何も考えず、先の見通しも全くないまま2週間で退職しました。

(退職当日の写真。通訳者からたくさんお花をいただきました。奥に写っている赤玉ポートワインは当時ビルの清掃をしていたおばさんにいただいたものです。この写真は今もオフィスに飾ってあります)

 

その時は不思議と収入がなくなるという不安はありませんでした。それでも強く落ち込んでいました。自分で決めたこととはいえ、仕事を続けらなかったこと、そして何よりも大好きな通訳者と一緒に仕事が出来なくなるということでした。夜遅くまで仕事をしていると「工藤さん、こんな遅くまで仕事しているの?資料はいいから早く帰りなさい」と声をかけてくれたり、真冬の夜の現場の仕事を引き受けてくれたり、終了報告の時に現場の面白いエピソードを聞かせてくれたり、気が付くと助けてくれる通訳者が周りにたくさんいました。それが寂しくて実は会社を辞めようと決心してから、何社か大手通訳エージェントのコーディネーター職の面接受けたこともあります。面接を通して、なぜか会社員としてコーディネーターの仕事を続けるイメージは出来ませんでした。

それだったら「理想とするエージェントを、自分で起業しよう」そう決心したのが、退職日の2日後です。

 

少し余談ですが、その当時私は経営者になりたかった訳ではなく、目指していたものがあります。それはテレビのシナリオライターです。シナリオライターの専門学校に数年通っていました。土日は有栖川図書館で朝から夕方までシナリオコンクールに向けて日々シナリオを書いていました。その甲斐あっていくつかのコンクールで入賞や最終選考に残ることもあり、段々テレビ局からプロットライターとして声を掛けてもらえるようになっていたのです。もっとシナリオを書く時間が欲しいというのも退職理由の一つです。ただライターとしての年収は20万ぐらいでした。「これだけでは生活できないだから起業しながらシナリオも書こう」そう考えたのです。今考えるとあまりにも無知で、怖いもの知らすの決断でした。

そして、2001年7月11日、設立の日を迎えました。

Written by

記事を書いた人

工藤浩美

白百合女子大学国文科卒業後、総合商社勤務。
その後通訳・翻訳エージェントに2社、合計11年間勤務。通訳コーディネーターとしてこれまでに数百件の通訳現場のサポートを行なう。 2001年7月に株式会社テンナイン・コミュニケーションを設立。趣味はシナリオ執筆。

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