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辞書を編む ~その5~

アース

通訳・翻訳者リレーブログ

(これまでの概要)20世紀最後の年、「使える辞書が欲しい」という思いだけを原動力に、現場の翻訳者や通訳者、すなわち「辞書作りの素人」たちによる『スペイン語経済ビジネス用語辞典』の制作が始まりました。一つの辞書を「元ネタ」にするのではなく、既存の様々な辞典や用語集、ネット上の資料などを元に、掲載したいと思う用語をかき集め、とりあえずの「基盤」ができあがりました。しかし訳語や用例など中身はスカスカ、凡例もまったく定まっていない状態です。それらを充実させていく、気の遠くなるような作業が始まりました。

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あまり記憶は定かではないですが、最初の基盤となった語数は、多くても5000語程度だったのではないかと思います。作業開始から発売までの約6年間にも、基本用語や新語で重大な取りこぼしがないよう、中身の充実を進めながらも常にアンテナを張っていました。結果的に発売時の掲載語数は、複合語も含めて約1万に膨らんでいました。

見出し語、訳語や用例の載せ方、類義語や反意語、凡例、囲み記事の有無など、辞書の屋台骨となる部分について、本来なら初期段階の編集会議等で基本方針を定めるところです。しかしわたしたちの場合は、メンバーが海外を含めて関東圏以外にも広く散らばっていたため、実際に顔を合わせる会議がほとんどできず、実際の作業をしながら手探りで方針を固めていきました。

そのせいで無駄になった作業もありましたが、一方で小回りが利き、最後の瞬間までユーザーフレンドリーな辞書を目指すことができたように思います。とはいえ、(当初は紙媒体での出版を予定していましたので)掲載できる情報量には限界があり、使えそうな情報はなんでもかんでも載せる、というわけにもいきません。あまり情報が多すぎても使いにくいものになるし、作業量が増え過ぎると採算性に問題が出てきます。

実際の執筆にあたっては当然ながら様々な問題がありましたが、書き尽くせるものではありませんので、一つだけ挙げてみます。それは「見出し語と用例のバランス」です。普通の辞書なら、見出し語はほとんどの場合、一単語です。しかし用語辞典となれば、複合語を見出しにすることも可能です。というより、それが普通でしょうか。

例えば株式関連の用語。スペイン語で言えばaccion(英stock)ですが、見出し語はaccionだけにして、accionを含む複合語はすべて「用例」として収めてしまう、という案が一つ。

しかし株式関連の重要語は多数ありますので、そのやり方ですと、accionという見出し語の中にごろごろと重要な言葉が並ぶことになります。この辞書はそもそも、「専門用語については簡潔な用語説明をつける」「用例を充実させる」ことが大目標でしたので、accionの下に並んだ重要語のそれぞれに説明をつけ、できれば用例をつけ、参考語もあれば載せ、補足を付け加え…と、どんどんとaccionの項目が膨らんでいきます。

初期段階で作った紙媒体用のサンプルではこうなっていました。

earth64.pngこうして見ると、まとまっていて便利そうな反面、どうにもぐちゃぐちゃしていて、見にくい感は否めません。紙媒体の辞書としては普通の表記のはずですが、電子辞書やネットの辞書を使い慣れた目で見ると、う〜んという感じですよね。

そこで、基本的に説明が必要な用語はすべて見出し語にする、ということになりました(完成した辞書では、accionを含む34の見出し語のほとんどに用語説明がついています)。

と、基本方針はそう決まったのですが、実際には、どの用語に説明をつけるのか、この語は用例扱いで十分なのでは、いや独立した見出し語にすべきだ…みたいな喧々諤々の議論をひたすら繰り返しました。用語説明がいらなくても重要な語というのは多くありますし、逆に「説明してもらわなきゃ絶対わからんでしょ」みたいな用語でも、使用例が少なければ用例にこっそり載せておくだけでいいものもあります。

もう一つ問題だったのは、ビジネスシーンでの使用例は多いが、非常に抽象的で、説明のつけようがない(あるいは必要ない)ような用語です。例えば「維持費」。

「費用」の意味のgasto(西)/cost(英)は、経済ビジネス用語辞典ならば、当然載っていてしかるべき語です。従って、「維持費」=gasto de mantenimiento(西)/cost of maintenance(英)が辞書に載っていてもおかしくはありません。しかしこれらを見出し語とすべきか用例とすべきかで、これまた激しい議論になりました。

gasto de mantenimiento/cost of maintenanceは、言ってみればgastoとmantenimiento、costとmaintenanceがくっついただけの語で、しかも専門用語ではなく、「維持する費用」以上の意味はありません。このように2つ以上の名詞が並んで意味をなす(専門用語でない)語は山のようにあるわけで、そこまで見出し語として載せると、「経済ビジネス用語辞典」としての意味が失われるのではないか。また「維持費」を載せるなら、例えば「管理費」「営繕費」「補修費」「整備費」等も見出し語にしなければ一貫性がとれない、一部だけ載せるのは、ゼロより悪いのではないか。という主張が一つ。

一方で、ユーザーとして想定している人の中には、プロの翻訳者や通訳者だけでなく、企業で貿易事務をやらされている人、スペイン語なんてまったく縁がなかったのに、いきなりスペイン語圏への赴任が決まった人、個人輸入したい人、あるいは学習者等々、スペイン語能力について言えばそれほど高くない人々も手にするのだから、そういった人にとっては、簡単な用語でも、辞書のどこかにあったほうが(そしてできれば見出しになっていたほうが)利便性が上がるのではないか、という主張もありました。

結論から言うと、きっちりとした線を引くことはせず(そもそも線引きなど無理なのですが)、ケースバイケースで判断していく、ということになりました。見出し語に昇格したもの、用例にとどめたもの、そもそも掲載をやめたもの、いろいろあります。最終的な見出し語の数は約1万語ですから、検討した語の数は、2〜3万に達しているかもしれません。扱いを何度も変えた語も多数あります。

例えば、固有名詞(組織名など)をどの程度載せるかとか、どの分野の用語を掲載するかとか、そういったざっくりとした方針は、理想と現実をはかりにかけて、案外簡単に決まっていった

ですが、辞書のすべての部分に関連し、場合によっては印象を根底から変えてしまう見出し語や用例部分の方針については、どのメンバーも自分なりに信じる基準(理想)があり、話し合いも相当に難航しました。一応の方針が決まった後も、あっちに揺れ、こっちに揺れ、その度に原稿を書き直し、終わりの見えない戦いが続きました。

いまの形になんとか収まったのは、「何が何でも完成させる」という気持ちが皆に共通していたから。そんな努力の結晶を、スペイン語関係者の皆さんにご購入いただければ幸いです(笑)。

内容についての話をこれ以上続けても、あまり面白くもないでしょうから、後は「辞書を編纂中の人間の生態」をお話しして、この「辞書を編む」シリーズを終えたいと思います。

                         (つづく)

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記事を書いた人

アース

田舎の翻訳者。外国留学・在留経験ナシ。都会生まれの都会育ちだが、現在はド田舎暮らしで、ネットのありがたさにすがって生きる日々。何でも楽しめる性格で、特に生き物と地球と宇宙が大好き。でも翻訳分野はなぜか金融・ビジネス(英語・西語)。宇宙旅行の資金を貯めるため、仕事の効率化(と単価アップ?!)を模索中。

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