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納得しなくてもいい。理解して欲しい。

いぬ

通訳・翻訳者リレーブログ

ずっと気がかりだった予定が水曜日に終了。自分なりには「やれることは全てやった。悔いはない。気に入っていただけるかどうかは、先方次第」という気分で帰りの電車に乗り込み、「このところピリピリしちゃって悪かったなー」という家族に対する罪悪感もあって、乗換駅で下車してシュークリームなどを買い込みました。

と、誰かが肩を叩きます。振り返ると弟がニコニコ笑っていました。弟は体型も性格も僕とは正反対で、仕事も航空機の内装の設計をやっています。激務でなかなか会えないのに、こんなところで会えるとは、何と言う偶然。義妹と2人で食べるようにと、ついでにチョコレートを買い込んで手渡し、乗り換えの電車を待つ間にしばらく語り合い、僕が先に電車に乗り込みました。こちらを見て手を振っていた弟ですが、途中から何かに気を取られたらしく、あさっての方向を見ています。何だろうと思っていたところ、携帯にメールが入りました。ベビーカーがドアにはさまれていたそうです。

ベビーカーを押していたお母さんかお父さんが不注意だったのかもしれないし、車掌さんの配慮が足りなかったのかもしれません。現場を目撃していないのでこの一件に関して断定的なことは言えません。しかしこういうことをきっかけについつい感じてしまうのですが、どうも全体的な印象として、あまり社会全体で子育てを支援して行こうという姿勢が全面に出ていないような気がします。その割には少子化少子化と大騒ぎするんですよね。

社会全体が、子供を持つグループと持たないグループとに分かれて、冷戦状態と言ったら言い過ぎなんでしょうが、「子育ての大変さも知らないで」「子育てと言えば何でも通ると思って」と冷たい火花を散らしているような印象があるのです。

女流棋士の高橋和(やまと)さんは、子育てをする母親の立場からの声を、7月5日付けの日経新聞などで伝えていますが、一方、スクラップブックを引っ張り出してみると、デンソーの岡部弘会長(当時。現相談役)は、2006年6月27日付けの日経新聞夕刊「明日への話題」で、こう語っています。

・「豊かな社会になると女性が子供を産まなくなるのは遺伝子がそのように作用するからである」という女性の遺伝学者の記事を週刊誌で見たことがある。

・少子化対策を国策として行なうべきだという意見が強いが、日本のような人口大国で成功させることは難しいだろう。

・少子化対策をしても効果が現れるのはかなり先のことだから、少子化を前提に豊かな安定化した社会をどう造るかということがより重要だと思うがどうか。

今読み返してみると、2年前にこの記事を切り抜いたときの怒りが一部よみがえって来ます。スクラップブックの余白には「あなたたちの世代がさんざん子育てがしにくい状況を作っておいて、それをこんな風に正当化するのはどうかな。『手の骨が元通りになるのには時間がかかるから、治療するより折れていることを前提とした生活をどう送るかがより重要だと思うがどうか』とでも言うのだろうか」などと感情に任せて書きなぐってあります。

今では、当時よりは余裕を持って岡部さんの主張にも耳を傾けられるように思います。岡部さんが経営者的な視点から出産と育児を語っているのに対し、私は現場の視点から反発を感じていたということなのでしょう。そうは言っても、分かっていただきたいこともあります。

まず、女性が子供を産まなくなったのは、社会が豊かになったからではないでしょう。産み育てることが状況的に難しくなったからだと思います。それは以前に比べれば、産休も育休も取りやすくなったとは思います。しかし、昨今問題になっているように、妊娠中に緊急事態が生じた時の即応体制も出来ておらず、子供が病気になっても小児科の医院は次々閉鎖され、子供を預けて働こうにも保育所や学童には順番待ちの長蛇の列というのでは、子供を持つことを躊躇する気持ちにもなろうというものではないでしょうか。育児を取り巻く社会的条件は、決して「豊か」ではないと思います。

次に、少子化対策を国策として成功させるには、日本の人口は多すぎるとのことですが、確かに経営的な観点で言えば、費用対効果が良くないのかもしれません。しかしこれはコスト度外視で取り組むべき課題ではないでしょうか。必要なことを採算を考えずに行なうからこその「国策」なのではないでしょうか。数年前にNHKのFMラジオ放送を廃止しようと言う声が上がりましたが、スポンサーの顔色を伺うことなく、「人気」やら「儲かるかどうか」やらを考えずに、「良い音楽」「伝えて行きたい芸能」など様々なものを取り上げて広めるということは、公共放送だからこそできる事なのだと思いますし、したがって廃止などとんでもないと思うのです。同じように費用対効果を度外視してこの問題に取り組むには、「国策」という音頭とりは不可欠でしょう。

最後に、まともな少子化対策を行なえば、その成果はすぐにあがると思います。「子育て支援システム」などで、若干安く物が買えるのはありがたいことではありますが、それだけではとても子供を産むインセンティブにはなりません。

まずは妊娠・出産をしっかりサポートする医療制度の確立。男性の側も、「父親学級」などに参加することを義務付けるべきです。個人的にはイギリスの病院で実施していたものが非常に良かったと思います。「一緒に子供を産み育てる」という意識を養ってくれました。また、こればかりは認める認めないの個人差が激しいとは思うのですが、立会い出産を出来るだけ奨励してみてはどうでしょうか。女性よりも男性に及ぼす心理的(プラスの)影響が大きいと思います。

次に託児施設の十分な設置と運営。病気になった子供を預かってくれる場所も必要です。子供が病気になるたびに欠勤しなければならないとしたら、企業にとっても損失でしょう。託児施設に関しては、企業の側でも自前で保育所を作ったりすることも出来るはずです。「保養所」は持てても「保育所」は持てない、というのも妙な理屈じゃありませんか。

それから、子供の親、特に母親同士が集まって話せる場があると良いです。子育ての先輩がいて、ちょっとの間でも子供たちを見てくれるような場所があれば、理想ですね。以前は大家族だったり、地域社会が密だったりすることで、そういう場所もあったのだと思いますが、それがなくなったのであれば、新たに作れば良いと思います。本当にキツイ時は、1時間でもいいからガーッと愚痴をこぼしたり好きなものを食べたり子供がいるとゆっくり

賞できないものを鑑賞したりできれば、意外と「よしっ、頑張るぞ!」とリフレッシュできるものなんですよね。

勤務体制も、時短はもとより、ワークシェアリングなども進めて欲しいです。例えば1つの仕事を月水金はAさん、火曜日と木曜日はBさんと分けるやりかたです。

もう一つ言うならば、これは子育てだけに関する問題ではないのですが、9時5時の勤務時間をきちんと守って、もちろんサービス残業などもなくしていくことも社会全体に有益だと思います。イギリスにいたとき、妻と住んでいたフラットの裏が小学校だったのですが、よく夜の7時ごろに保護者会らしきものが開かれていました。

息子の小学校でも娘の幼稚園でも、PTAなどの役員は押し付け合いが常で、「引き受けてくださる方・・・」という呼びかけだけが教室に空しく響き、結局専業主婦のお母さんにお鉢が回ってしまうということが日常的です。参加可能な時間であれば引き受けたいと思っている保護者も多いはずで、夜の時間帯に会合などを設定してもらえれば(教室のカギを渡して先生は帰宅していただいて構いません)人材活用という観点からも良いのではないかと思います。子供がいない場合でも、夜の時間が長ければ、いったん帰宅して夕食をとり、その後自分の趣味の会合などに出かけて10時ごろ帰って来て就寝という、実にうるおいのある生活が送れますしね。

ここまでやってはじめて「少子化対策」と胸を張れると思いますよ。金券を配るだけで何とかなるような単純で底の浅い問題ではないと思います。

ただ、その一方でそういう社会が実現した場合、今よりいろいろな面で若干不便なことも増えるでしょう。問い合わせをしたら、「ああ、Aさんはあさって出勤なので、2日後にご連絡します」といわれたとか、急用でお店に行ってみたら、まだ6時過ぎなのに閉店していたとか。しかし、数字の上では世界指折りの経済大国なのに、子供も満足に産み育てられないなんて、実に貧しい状況じゃありませんか。収入が多少減っても、社会が多少不便になっても、みんなが少しずつ我慢することで、もっと広い意味でより「豊か」な生活が出来るのならば、個人的にはそちらの方が良いと思っています。

どうも今の日本は、「俺だってこんなに滅私奉公してるんだから、お前らも好き勝手言うな」という論理が横行しているようなのですが、そもそもの原因は高度経済成長時代もかくやという「滅私奉公の強要」にあるのではないでしょうか。しかも、昔のように右肩上がりなら、「辛いのは今だけ」と思えますが、今は過労死するほど頑張っても、そのうち楽になるとは思いづらいですし。自分がそんなに切羽詰ってなければ、他人にも社会にも、もう少し寛容になれるように思います。みんなでちょっとずつ不便を耐え忍ぶことで、それが実現できるならば、そちらの選択肢を個人的には選びたいですね。

「経験してみないと分からない」ことは多々あれど、「実感できなくても理解できればいい」ということもまた多いはずです。例えば、戦争について教育するときに、実際に子供を戦場に送り込む必要はないでしょう。育児を巡る問題も同じです。

お互いの言い分に「納得」出来なくてもいいから、もっとコミュニケーションをとって、せめて相手がなぜそういうのかを「理解」することが出来ればと思います。私にとって「通訳」や「翻訳」は、そういうコミュニケーション行為のお手伝いなのです。

水曜に帰宅したあと、翌日は原稿書きと大学の授業と、夕方からアルク「ヒアリングマラソン」の教材収録を終えて帰宅。夕食をとって翌朝4時からNHKでの通訳シフト。それが終わって帰宅し、早帰りだった息子とパスポートを取るために妻に伴われて早退してきた娘のために昼食を作って3人を送り出して、ようやく一息つきました。勤務時間うんぬんという資格はないかもしれません。

実は、パスポートセンターがあるのが大宮なので、駅前にあるプラネタリウムにみんなで行ってはどうかと妻に打診していました。ぜひ行こうという話になって、夕方に合流。大学時代はムシャクシャしたときによく渋谷のプラネタリウムに行ったものです。今ではそこも、プラネタリウムがあった建物ごと消滅してしまいました。時の流れを感じますね。

さて、十数年ぶりのプラネタリウムでしたが、実に楽しいひと時でした。休日は混むそうですが、金曜日の16時半からはガラ空きです。これで何とかやっていけるのも、私企業ではないからでしょう。でも、もっと地域全体で支えねば。なに、難しいことはありません。ちょっと足を運ぶだけでよいのです。お近くの方は、ぜひどうぞ。

http://www.ucyugekijo.jp/

音響の良いドームで星空を見上げていると、地べたに張り付いている自分が、何だか小さく思えてきます。私が子供の頃は、まだアポロ宇宙船の月面着陸から10年も経っていなくて、子供たちは宇宙に思いをはせていました。根拠のない希望のようなものにあふれていたと思います。今の大学生に「アポロ宇宙船って知ってる?」と聞いても「ああ、あの爆発した奴ですか?」と返されて、「そりゃ、スペースシャトルッ!」と素で突っ込みを入れてしまったりするのですが、何と言うか、現実離れした雄大な視点を持ちにくくなっているのは、ちょっとかわいそうな気もします。まあ、大きなお世話でしょうけれども。

土曜日は午後から妻と2人で近くの芸術劇場で上映された「善き人のためのソナタ」を見に行きました。

http://www.albatros-film.com/movie/yokihito/

ウィキペディアの紹介文によると、「1984年の東ベルリン。国家保安省(シュタージ)の局員ヴィースラー大尉は国家に忠誠を誓っていた。ある日彼は、反体制の疑いのある劇作家ドライマンとその同棲相手の舞台女優クリスタを監視するよう命じられる。さっそくドライマンのアパートには盗聴器が仕掛けられ、ヴィースラーは徹底した監視を開始する。しかし、音楽や文学を語り合い、深く愛し合う彼らの世界にヴィースラーは次第に共鳴していく。そして(以下略)」というような内容です。

冒頭のシュタージの養成所で、「真実を語るものは、いく通りにも表現するが、ウソをついている者は最初に決めた叙述に固執する」と冷静に語るヴィースラー大尉が、最後には自分の出世を犠牲にしても監視対象の芸術家を守ろうとします。それは何故だったのだろうと考えてしまいました。

大尉の家族の描写は全く出てきません。家族のぬくもりといったものとは無縁の生活を送っていたがゆえに、シュタージにおける出世がすべてという精神構造に

ってしまったのでしょうか。価値判断の「軸」が一つだったがゆえに、それにしがみついてしまっていたのでしょうか。そこに新たな価値観が監視対象からもたらされ、激しい内面的変化があった、と。

このあたりは、やはり監視社会を経験したであろう、さるるんさんのご主人と、機会があったらいろいろお話し出来ればなと思います。

最後の方で元大臣が「反抗する対象がなくなったら、書けないのか」というようなことを劇作家に言っていましたが、ほとんどの人にとってはそんなものでしょうね。校則に反発して、それを歌や詩にして訴えていた生徒が、卒業した後に感じる虚無感のようなものでしょうか。スケールのずっと小さな例えですが。だからこそ、どんな時でも「書ける」、いやむしろ、「書かずには生きられない」のが芸術家なのかなと思います。

映画のサイトを探していたら、視覚障害者の方のコメントが見つかりました。これも私には想像するしかない世界ですが、なるほどと思います。上手くリンクできていると良いのですが。

http://www.eigaseikatu.com/com/16953/312519/

この方が入会されている、目の不自由な方とともに映画を鑑賞する団体、City Lightsのウェブページも見つけました。個人的に朗読(音訳、と言うんでしたっけ)にも興味があるので、何らかの形でそのうち私も関わってみたいと思います。

http://www.ne.jp/asahi/city/lights/

帰り道に自転車をこぎながら、妻と2人で「なぜヴィースラーさんは変われたのだろう?」と話しました。もちろんそれまでの境遇とのギャップから来る衝撃というものもあったでしょう。しかしそれならば、他にもヴィースラーさんのようなシュタージ職員が多数発生したはずです。所詮フィクションだから、というみもふたもない結論を下すのは簡単ですが、それならばなぜ作り事のはずのあの映画に、あれほどのリアリティーを感じるのか。ヴィースラーさんという架空のはずの人物の、確かな存在を感じるのでしょうか。何か感覚的には分かっているような気がするものの、それをハッキリと手につかめないようなもどかしさがあります。

映画の後、石子順氏のアフタートークがあり、これも非常に考えさせられる内容でした。関連作品である「帝国オーケストラ」は、ぜひ見てみたいと思います。これはナチスの国策に利用されていた時代のベルリン・フィルを描いた映画で、ベルリン・フィルの創設125周年記念作品として、楽団からの全面的バックアップを受けて作った作品だそうです。時代考証には、当時の団員だった方も協力しているとか。ベルリン・フィルの戦争責任を描いているとのこと。

メンデルスゾーン、チャイコフスキーといった、ユダヤ人作曲家の作品の演奏が禁じられる中、ナチスドイツのために演奏した団員たちは「ただ演奏を続けたかっただけだ」と語っているそうです。純粋に芸術が追求したかっただけだとは思うのですが、厳密に言えば、やはり戦争責任はあるのではないかと思います。というのも、明治大学の斉藤孝先生が、「くんずほぐれつ」という本のなかで、こんなことを書いているのを思い出したからです。長いですが引用します。

「体育の授業の終わりの集合時間に、たしかMというクラスメートが一人だけ姿を現さず、みんなで整列したまま五分ほど待ったことがあった。そして彼が慌てながら集団に加わったときに、Nという野球部の監督をしていた体育教師は、苦々しい口調で、『おい、みんなを見てみろ。みんなおまえ一人を待っていたんだぞ。おまえのおかげでみんな早く帰れなくて大迷惑したんだぞ。なあ、そうだろ、おまえら。みんなへのつぐないとして、五分×五十人分、一人でグラウンドに立ってろ。では、解散』と命令した。僕たちは、とまどいながらも、一人欠け、二人欠け、というようにして、結局は全員が彼をグラウンドに残したまま教室へと戻ってきてしまった。Mがその後どうしたのか、今は思い出せない。わかっているのは、あのとき、僕らはMを確かに見捨てたということだ。彼に同情はしていたが、僕らは何もしなかった。何もしないということで、Nをサポートしたのだった。

それから二、三年経ったある日、ふとその事件を思い出し、無性に腹立たしくなった。教師の権力的な振る舞いに対して全面的な抗議をすることができなかったとしても、なぜ、あのとき、せめて、「俺はMを五分待ったのをなんとも思っていないから、俺の五分は引いてくれ」と言えなかったのか。僕がそう言えば、他のやつらもその流れに乗ってきただろう。みんなあの教師のやり口には、常日頃から批判的だったのだから。しかし現実には、半歩踏み出すどころか、Nが与えた、仲間を見捨てることの訓練に参加し、彼を残して引き揚げるという行動によって、仲間を見捨てるとはどうすることなのかを体で学んでしまったのだ。

こんなことはささいなことだが頭を離れない。積極的に手を下さないまでも、何も抗議しない傍観者の立場に留まることによって、僕らはたしかに事態に加担していたのだ。」(pp.169-171)

ヴィースラーさんが、ちょっとしたことをきっかけに変われたように、私自身もちょっとしたきっかけで、それとは逆の変化を起こさないとは言い切れない。今が戦争中ならば、私は映画「西部戦線異常なし」の冒頭の教師のように、学生たちを戦場に駆り立てる、扇動的な演説の一つもぶちかねない、そんな怖さを感じます。人間という存在の危うさ、とでも言えば良いのでしょうか。

ハンス・ペーター・リヒター作・上田真而子訳の「あのころはフリードリヒがいた」という本には、ごく普通の少年が、ユダヤ人学校の破壊に手を染めるくだりが描かれています。次のようなものです。

「大工道具棚を見つけた中年の男の人が、中の道具をあちこちポケットにつめこんでいた。ぼくがゆくと、金槌を、まだ新しい金槌を、ぼくの手に押し付けた。

はじめ、ぼくはその金槌をただもてあそんでいた。無意識のまま、柄をにぎってふりまわしていた。と、偶然、先が何かに当たった—ガラスが音を立てて割れた。こわされた本棚に残っていたガラスだった。

ぼくは、はっとした。が、同時に目覚めたのは、好奇心だった。僕は、割れたガラスの残りを金槌でそっとたたいてみた。ガラスはかりかりと枠から落ちた。おもしろくてたまらなくなった。三枚目になると、ぼくはもう、力まかせにたたき割った。破片が飛び散った。

勢いづいたぼくは、金槌を振り回しながら廊下を闊歩した。じゃまになるものは片っぱしからたたきのけた。いすの脚、ひっくりかえった戸棚、ガラ

スコップ。体中に力がみなぎるのを感じた。自分のふりまわす金槌の威力に酔いしれて、声高らかに歌いたいほどだった。」(pp.152-153)

そしていつしか、金槌が銃に代わるのでしょう。ごく普通の男の子が引き金を引く瞬間は、意外とあっけなく到来するに違いありません。

それにしても、ドイツ人自身が、しかも若い世代が、こうした時代を正面から見据えた作品を作っていることは、特筆に価します。単に「自分たちも戦争やナチスドイツやヒットラー、そして冷戦の被害者だった」という視点からは、「善き人のためのソナタ」や「帝国オーケストラ」さらに石子さんが紹介していた「ヒトラー〜最後の12日間」といった映画は生まれてこないでしょう。

「反省」という名の元に過去にフタをしてしまえば、それは危機が迫ってくると砂の中に頭を突っ込み「自分からは敵が見えないから、敵からも自分が見えないに違いない」と思うというダチョウの悲しき習性(本当なんでしょうか?例えなんでしょうか?)と同じことになってしまいかねません。

いたずらに批判するのではなく、かと言って何でもかんでもなかったことにするのでもなく、事実のかけらを拾い集め、「納得」出来なくても「理解」して行きたいものだと考えています。

ちなみに、これを書いているのは11月9日なのですが、偶然にも1989年の今日、ベルリンの壁が崩壊しています。大学2年のときのことでした。ベルリンの壁と言い、初の黒人大統領の誕生と言い、あまり実感はわかないものの、将来世界史の年表に載ることは確実な「歴史的事件」を目の当たりにしながら、私たちは生きているんですね。

Written by

記事を書いた人

いぬ

幼少期より日本で過ごす。大学留年、通訳学校進級失敗の後、イギリス逃亡。彼の地で仕事と伴侶を得て帰国。現在、放送通訳者兼映像翻訳者兼大学講師として稼動中。いろんな意味で規格外の2児の父。

END