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現代のネクロマンサー

いぬ

通訳・翻訳者リレーブログ

(今回はちょっと前に書いた文章の転載です)

今日のABCナイトラインで、とある発明家の話が出てきました。この男性は、40年前に亡くなった父親のありとあらゆるデータを集めて、父親を「蘇らせようと」しているのだそうです。

もちろん肉体的に復活するというのではないのですが、この男性の父親(オーケストラの指揮者でした)に関する、結婚写真からコンサートの写真からレコードから書き込みのある楽譜から、とにかくありとあらゆるデータをコンピューターにインプットして、「父親と話しているのと変わらない」人工知能を作り上げるのを目的としているのだとか。

この話を聞いて、考えてしまいました。我々が「リアル」と感じているものは、どれだけ「真実」なのでしょうか。

私個人の考えでは、父親ときわめて似通った反応をする人工知能を作り出すのは可能だと思います。今でも方言ジェネレータというお遊びソフトがあって、共通語で書いた文章を入力すると、見事(と思える)関西弁に翻訳してくれたりします。

「関西弁変換システム」
http://www.e-yanagase.com/kansai.html

これと同じ理屈で、膨大なデータの中から男性の父親の知的活動パターンや、その一部としての言語活動における特徴を抽出できれば、それに沿った受け答えをさせることは理屈から言って不可能ではないと思うのです。

しかし、それを持って、その人工知能と男性の父親を同じものとしてとらえていいのか。そう考えると、どうしても答えはNOでしょう。非常に上手な物真似芸人と、物真似の対象になった本人ぐらいの違いがあると思います。

でも、例えば私が遠い国に赴任することになり、子供たちとメールでやり取りしていたとします。ところが不慮の事故で私が死んでしまいました。子供たちにそれを悟られないように、心優しき友人が私のメールの書き口を非常にうまく真似して子供たちにメールを出し続けたとしたら、子供たちにとってそのメールは「お父さんからのメール」なのだと思います。友人の代わりに、非常に精巧な人工知能がメールを出しても、同じことでしょう。

いやいや、書きながら思いましたが、それは主観と客観を混同していますね。

ニュースに出てきた発明家の男性や、先ほどのたとえ話の中の私の子供たちにとっては、人工知能は父親と変わらないわけです、主観的には。

しかし客観的には、どう考えてもそうではないと。

すると、どう「これは本物だ」と主観的に思えるかが大切になってくるというわけでしょうか。何となく、「鰯の頭も信心から」という表現が思い浮かびますが……。

そう考えてみると、「これは本物だ」という現実感も、何だか怪しいものだなと思います。目の前にいる人と話をしていても、どこかで「この人はこういう人で、こう言えばこんな風に反応するのがこの人らしさだ」という主観、別の見方をすれば自分の心の中に作り上げた話し相手の虚像と会話をしている部分もあると思うのです。

別の角度から見ると、プラセボ効果などもそういう側面がありますよね。「この薬は、こういう効果を及ぼすはず」という虚像を心の中に抱くと、体がその通りに反応するわけです。

誰かが亡くなった後、「お前だったらどうする?」と心の中でその人に問いかけるのも、みもふたもない言い方をすれば、自分の心の中に作り上げた虚像との対話ということになります。

亡くなった人との交流(それも厳密には何をもって「交流」なのか、自分の心の中の虚像との交流がどれだけの割合を占めていたのかという話にはなりますが)によって蓄積された、膨大なデータをもとに、「あの人ならこういう風に反応するだろうな」とシミュレートしているのですから。

となると、それは冒頭に出てきた発明家が作ろうとしている人工知能と、どう違うのでしょうか?ある人間の存在は、機械で代替できるということ?

考えてみれば、人形にしてもぬいぐるみにしても、ちょっと前にはやったアイボにしても、そういう側面はあるわけですよね。人間の「認知」って、そもそもどういうものなのでしょう。

恐らく論点が絞り切れておらず、複数の要素をいっしょくたにしているからだと思いますが、考えれば考えるほどわからなくなってしまい、もういいから寝ちゃおうかなあ、でも気になるなあ、などと思っています。

<おまけ>
関西弁変換システムに、今回のエントリを関西弁にしてもらいました。「おとん親」が惜しかった。「おとん」で止めといてくれれば。

<関西弁バージョン>

今日のABCナイトラインで、とある発明家の話が出てきたんや。この男性は、40年前に亡くなりよったおとん親のありとあらゆるデータを集めて、おとん親を「蘇らせようと」しておるのだそうや。

もちろん肉体的に復活するとゆうのではおまへんのやけど、この男性のおとん親(オーケストラの指揮者でした)に関する、結婚写真からコンサートの写真からレコードから書き込みのある楽譜から、とにかくありとあらゆるデータをコンピューターにインプットして、「おとん親と話しておるのと変わりまへん」人工知能を作り上げるのを目的としておるのだとか。

この話を聞いて、考えてしもたんや。ウチらが「リアル」と感じておるものは、どれだけ「ホンマ」やのでっしゃろーか。

わて個人の考えでは、おとん親ときわめて似通った反応をする人工知能を作り出すのは可能だと思うでぇ。今でも方言ジェネレータとゆうお遊びソフトがあって、共通語で書いた文章を入力すると、見事(と思える)関西弁に翻訳してくれはったりしまんねん。

「関西弁変換システム」
http://www.e-yanagase.com/kansai.html

これやと同じ理屈で、膨大なデータの中から男性のおとん親の知的活動パターンや、その一部としての言語活動におけるええトコを抽出できれば、それに沿った受け答えをさせることは理屈から言って不可能ではおまへんと思うのや。

せやけど、それを持って、その人工知能と男性のおとん親を同じものとしてとらえてえぇーのか。そう考えると、なんでやも答えはNOでっしゃろー。どエライ上手な物真似芸人と、物真似の対象になりよった本人ぐらいの違いがあると思うでぇ。

でも、例えばわてが遠い国に赴任することになり、お子たちとメールでやり取りしていたとしまんねん。ところが不慮の事故でわてが死んでしもたんや。お子たちにそれを悟られへんように、心優しきツレがわてのメールの書き口をどエライあんじょう真似してお子たちにメールを出

し続けたとしたら、お子たちにとってそのメールは「おとんからのメール」なのだと思うでぇ。ツレの代わりに、どエライ精巧な人工知能がメールを出しても、同じことでっしゃろー。

いやいや、書きながら思おるけど、それは主観と客観を混同していまんねん。

ニュースに出てきた発明家の男性や、先ほどのたとえ話の中のわてのお子たちにとっては、人工知能はおとん親と変わりまへんわけや、主観的には。

せやけど客観的には、どう考えてもそうではおまへんと。

すると、どう「これやは本物だ」と主観的に思えるかが大切になってくるとゆうわけでっしゃろーか。何となく、「鰯の頭も信心から」とゆう表現が思い浮かびまっけど……。

そう考えてみると、「これやは本物だ」とゆう現実感も、何だか怪しいものだなと思うでぇ。目の前におる人と話をしていても、どこぞで「この人はこうゆう人で、こう言えばこないな風に反応するのがこの人らしさだ」とゆう主観、別の見方をすればオノレの心の中に作り上げた話し相手の虚像と会話をしておる部分もあると思うのや。

別の角度から見ると、プラセボ効果なんやらもそうゆう側面があるんやよなぁ。「この薬は、こうゆう効果を及ぼすはず」とゆう虚像を心の中に抱くと、体がその通りに反応するわけや。

どなたはんかが亡くなりよった後、「おんどれやったらどうする?」と心の中でその人に問いかけるのも、みもふたもない言い方をすれば、オノレの心の中に作り上げた虚像との対話とゆうことになるんや。

亡くなりよった人との交流(それも厳密には何をもって「交流」なのか、オノレの心の中の虚像との交流がどれだけの割合を占めていたのかとゆう話にはなりまっけど)によって蓄積された、膨大なデータをもとに、「あの人ならこうゆう風に反応するやろうな」とシミュレートしておるのやろから。

となると、それは冒頭に出てきた発明家が作ろうとしておる人工知能と、どうちゃうのでっしゃろーか?ある人間の存在は、機械で代替できるとゆうこと?

考えてみれば、人形にしてもぬいぐるみにしても、チト前にはやったアイボにしても、そうゆう側面はあるわけやよなぁ。人間の「認知」って、そもそもどうゆうものやのでっしゃろー。

ワイが思には論点が絞り切れておらず、複数の要素をいっしょくたにしておるからだと思うんやが、考えれば考えるほどわからなくなってしもて、もうえぇーから寝ちゃおうかなあ、でも気になるなあ、なんやらと思っていまんねん。

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記事を書いた人

いぬ

幼少期より日本で過ごす。大学留年、通訳学校進級失敗の後、イギリス逃亡。彼の地で仕事と伴侶を得て帰国。現在、放送通訳者兼映像翻訳者兼大学講師として稼動中。いろんな意味で規格外の2児の父。

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