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「分業」という病

いぬ

通訳・翻訳者リレーブログ

先週は、期せずして「リレーブログ」になりましたね。
さるるん@ロシアさん、みなみさん、ありがとうございました。私もお二人のブログを非常に興味深く拝読しました。

さるるんさん、結局、歴史は真実をある側面から語ったものですから、やはり別の側面から語ればかなり語り口は変わりますよね。BBCに勤めていた頃、ニュース原稿に"in the British colony of Hong Kong(イギリスの植民地・香港では)"なんて言葉があって、「もうとっくに返還しているでしょう!?」とニュースルームに問い合わせたら、「分かった。原稿を修正する」との返事。さて、どういう風に修正するのかなと思いつつ、次の時間のニュースを通訳していたら、ちゃんと修正されていました。"in the FOMER British colony of Hong Kong(イギリスの「元」植民地・・・)"って。いろんなことを思わせますよね。何にしても、情報を鵜呑みにせず、かと言って自分の都合の良い情報ばかりに目を向けたりせず、様々な情報に接して、最終的には自分で判断を下したいものだと思っています。

みなみさん、私もイギリスにいた当時は、VEデー(対独戦勝記念日)や、Remembrance Day(戦没者追悼記念日)などを身近に感じて生活していました。日本人としては、欧州戦線は、あまり馴染みがないですよね。以前読んだ「ブリエアの解放者たち」という本が印象的でした。ロンドンの戦争博物館にも何度も足を運びましたが、そのたびに当時の日本兵の写真をジッと見てしまいます。現代の日本で、通勤途中にいくらでも出会いそうな顔です。戦後60年というと、はるか昔のことのようですが、生物としての歴史というスパンで見たら昨日の事に等しいのだなあ、などと思います。まあ、浮世離れした考え方であることは間違いないですけれども。

さて、今回は田植えを体験しつつ心に浮かんだよしなしごとをば・・・。

達成しなければいけない目標があったとします。最初は1人で取り組んでいますが、そのうちに志を同じくする仲間が集まってくるでしょう。すると、目標を細分化して、それぞれの得意なものを担当する方が効率が良くなります。「分業化」が進むわけです。

やがて組織が大きくなると、分業がどんどん進むのと反比例するように、一番最初に意識した目標は、かすんでいきます。目標を達成するための「手段」だった分業化が、ともすると「目的」にすりかわってしまい、分業化・効率化することそのものが目的になってしまうのです。

そうなると、みんながみんな、アクセルベタ踏みで頑張っていて、作業も効率的に進んではいても「・・・何かおかしい」と感じるようになるのではないでしょうか。

そんなことを、今日田植えをしながら考えていました。妻が見つけて申し込んでくれた「農業体験実習」に一家4人で参加してきたのです。

個人的には、田植えそのものは初めてでしたが、実に懐かしい感じのする体験でした。近郊農業が盛んだった地域で育ったので、子供の頃は麦の刈り取りを手伝って、麦わらを山のように積んだトラクターの荷台に乗せてもらったり、アルミホイルに包んだジャガイモを麦わらの山に放り込んでから火をつけて、ジャガイモに塩を振って食べたりしたもので、常に土の香りが身近にあったものです。

しかしいつの間にか、土とは無縁の生活をするようになり、泥はおろしたての服を汚す、にっくき敵となってしまいました。野菜はスーバーでピカピカに洗ってあるものを買い、米はビニール袋に入った無洗米。

そんな日々を過ごしている中で、素足になり、あぜ道に生えた草の感触を足裏に感じながら歩き、田んぼのなめらかで暖かい泥の中に足を沈めるのは、実に鮮烈な経験でした。ああ、子供の頃は、こうやって体全体でいろんなものを感じ取って生きていたよなあ、などと大げさなことを考えていたのです。

指導員役の農家の方や、農工大学の学生さんに見守られながら、集まった数十人の親子連れが、腰をかがめて、一列に苗を植えて行きます。娘のKは、田んぼに入った数十秒後に、足をもつれさせて泥の海に豪快なダイブを決め、顔をまだらにしながらも上機嫌。息子のNは数回苗を植えた後は、他の子供たちとタニシ取りに夢中でした。

私はと言うと、久しぶりにかいだ土のにおいや草のにおい、そして全身で「自然」を感じられることに静かな満足感を覚えていました。

「疲れた」「のどが渇いた」とブツブツ言いながら苗を植えていたNも、これで「ご飯が食べられる」ということがどういうことなのか、今までとは少し違った形で認識できるようになっていて欲しいです。

当たり前の話だとは思いますが、分業化、効率化が進んで、「食」に手間をかけなくても済むようになったのは、本来はそうやって浮かした時間で、人生をより充実させるためだったのではないでしょうか。

しかし、実際はどうか。いつの間にか、よりよく生きるための手段のはずの分業化・効率化が目的にすりかわってしまっているので、浮かせた時間に、さらに仕事を詰め込んでしまっているのです。もちろんその方が、仕事の効率は良くなるのでしょう。社会全体としてのアウトプットも、生産物の量というモノサシから見れば、向上するのかもしれません。

しかしそれも行き過ぎれば、ひずみが出てきます。農薬や人口肥料の使いすぎ、野菜そのものの栄養価の低下といったしっぺ返しが待っています。先日の「餃子」事件だって、少しでも安ければそれで良いという、消費者側の態度が招いた事件という側面もあるのではないでしょうか。

もちろん、現実問題として悠長なことは言っていられないことも分かってはいます。工業生産のように分業化・効率化を進めなければ、現在の農業は立ち行かないところまで来ていますし、そうでもしなければ、世界の人々のお腹を満たせないところまで来ていることも分かってはいるのです。

現実問題として、私たちが田植えをしたのは、田んぼ全体の4分の1ほど。残りは講師役の農家の方が、田植え機でどんどん苗を植えていました。結局、分業化・効率化は無視できないことではあるのです。

それでも自分の日常を振り返り、自分が住む社会を振り返ると、分業化・効率化の弊害が、あまりに多く目に付きます。自分の関与すること以外は興味を持たず、むしろ自分の関与すること以外の事柄に、自分のテリトリーをかき乱さないで欲しいという姿勢が、あまりにも目に付くように思うのです。そうやって、どんどん自分の首を絞めてしまっているように感じます。

さじ加減の問題なのだろうとは思うのですが

、なかなか難しいですよね。

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記事を書いた人

いぬ

幼少期より日本で過ごす。大学留年、通訳学校進級失敗の後、イギリス逃亡。彼の地で仕事と伴侶を得て帰国。現在、放送通訳者兼映像翻訳者兼大学講師として稼動中。いろんな意味で規格外の2児の父。

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