INTERPRETATION

Vol.14 森祐子さん「世界にはいろんな言葉がある」

ハイキャリア編集部

多言語通訳者・翻訳者インタビュー

【プロフィール】
森祐子さん Yuko Mori
経歴:東京外国語大学大学院地域文化研究科修了。在学中に、イラン・イスラム共和国テヘラン大学付属ペルシア語学学校に留学。学生時より通訳者としての活動を始める。高校時代の交換留学および夫の転勤により3度の米国滞在を経験。現在は、司法関係からビジネスまで幅広い分野にて、ペルシア語・英語通翻訳者として活躍中。

語学に興味を持ったきっかけは何ですか?
あまり記憶にないのですが、実は幼稚園の頃から英会話学校に通っていました。勉強というよりも、遊びに行く感覚でしたが。また、学生の頃はガリ勉だったので(笑)、学校の成績はよかったんですよ。
中学の時のイベントで、インターナショナルスクールの学生のガイド役として、公園を案内したのが英語に興味を持った一つのきっかけです。もう一つのきっかけは、親と行った海外旅行先でのトラブル。当時、家族の誰一人として英語が話せず、結果的に従姉妹の片言の英語とジェスチャーによって、かろうじてコミュニケーションをはかることが出来ました。その時に、あぁ言葉とはコミュニケーションのツールなんだなと思いました。
その後、高校時に交換留学制度を利用し、1年間米国に滞在しました。日本とは全く異なる文化や生活を体験することができ、非常に新鮮でした。せっかくだからと、スピーチや演劇といった、日本の学校で受講出来ないような科目を受講しました。当時の語学力は、無理矢理日常会話を成立させるようなレベルでしたが(笑)、文法的に正しく話そうということよりも、どういう雰囲気の時にどういう言葉を使うのかに重きを置いていたような気がします。

大学でペルシア語学科を選んだのは?
ある時受けた、小論文模試の題材が「外国人労働者の人権について」だったんです。当時、多くのイラン人が日本に出稼ぎに来ており、代々木公園や上野でコミュニティを作っているというニュースが度々報道されていました。いったいこの人たちは何語を話すんだろう、どうしてこれだけ大勢で日本に来るようになったんだろうと、漠然とした疑問があったのですが、この小論文をきっかけに、疑問が興味に変わっていきました。実はこの時まで、イランではペルシア語が話されているということも知りませんでした。当初、国際関係学科への進学を希望していましたが、言葉から入るのもいいかもしれないと思い、ほんの軽い気持ちでペルシア語学科への進学を決めました。
大学ではゼロからペルシア語を勉強し、平行してイランの文化、歴史、文学を学びました。特に、ペルシア文学の歴史は特筆すべきもので、イランの方は皆さん非常に詩に詳しいんですよ。現地でも、学生は有名な詩人の詩を全て暗記するよう義務付けられているようです。私たちもそれにならって暗記させられましたが、難しいことこの上ありませんでした。

ご卒業後は?
メディアが報じるイランの情勢と、実際に自分が勉強して得た知識にギャップがある気がし、もっと突き詰めて国家とは何か、文化とはどういうものかといった概念的なことを学んでみたいと感じていました。そこで、大学院への進学を決めました。
資料集めのためにイランに滞在しましたが、高校時に訪れたアメリカとはある意味対極で、ビビッドな体験でした。例えば、顔を見て、「外国人」だと分かると、タクシー料金を値上げされるんです。滞在中、そろそろ私もタクシーに乗れるぐらいの語学力はついたかしらと思い、いざタクシーへ。車内では、「だまされてはいけない、とにかく言葉だけは負けないんだから!」と必死の形相でした。結果、会話は完璧、運賃も正規のまま。しかし、うまくいったとほっとしたのもつかの間、私はお札の種類を勘違いしており、勝手に高く支払ってしまったんです!運転手が、「日本人はいい人だね」と笑いながら言った理由が分かりました……。
また、「おしん」がイランで流行っていたことには驚きました。努力の末、貧困から成功への切符を掴んだという物語は、イランの人々の共感を得たようです。「おしん」がきっかけで、イラン人が東京に来るようになったという説もあるぐらいです。そのせいか、道を歩いていると、「おしん!」とよく声をかけられました。

その後、通訳に?
研究という形ではなく、実社会で自分の力を還元し、自分が抱えている疑問点を解決していけたらと思い、博士課程への進学は取りやめました。また、在学中から通訳のお仕事を頂いていたこともあり、これも私が出来ることの一つかもしれないと感じました。
初めての仕事は、コンサートツアーでのアテンド通訳でした。当時、在日外国人支援のNGOで活動をしていたんですが、ペルシア民族音楽コンサートツアーを企画している団体から、予定していた通訳が急遽都合が悪くなったので、誰かピンチヒッターはいないかとNGOに連絡がありました。日本語とペルシア語が出来る人、ということで私に白羽の矢が立ったわけですが、それまで通訳なんてやってことがなかったので、どうしようかと思いましたね。前任の通訳者に試験をして頂き、「まぁなんとかいけるんじゃないか」ということで、13日間の全国横断ツアーでの通訳を務めることになりました。とても楽しく、勉強になりましたが、私の通訳は相当ひどかったと思います。まさに、直訳というか……。例えば、「皆さん、ホテルの扉の前に荷物を置いてください」と通訳したくても、「荷物を置いてください」しか出てこないんですよ。「扉の前に」が出ない。でも、イラン人の方々も、だんだんそんな私の様子を見てどの言葉が抜けているのかを察して下さるようになったんです。後ろから助け舟を出してくださることもあり、お客様に助けられての通訳デビューでした。そんなひどい状態でしたが、イラン人の音楽家と日本人の間で、ほんの少しでも橋渡しが出来たのかもしれないと思うと、とても嬉しかったんです。それまで自分の中にあった、文化や国境に関する疑問を解く鍵が少しだけ見えた気がしました。

今までで、特に印象に残ったお仕事は?
警察での初めての通訳です。それまで何度もご依頼を頂いていたのですが、ビジネス関係の通訳とは違って、使う用語が独特なこと、また被疑者の方は言葉が出来ずにつらい立場にいらっしゃるので、その間に立って自分が通訳するのは心苦しく、ずっとお断りしていました。そんな時、非常に熱心なエージェントの方に、「一度でいいからやってみてください。また違った角度から貢献が出来ると思いますから」と言われたのがきっかけで、請けることにしました。
ある県警でのお仕事で、今でも非常に印象に残っています。当時、イランから出稼ぎに来ている人たちが地方にもいました。取調べの際、受け入れ先の日本人工場主夫婦がいらっしゃって、ガラスのドアを通しての接見になりました。被疑者側は、不法滞在で強制送還されるということでした。取り調べで、そのご夫婦とは家族同然のお付き合いをしていたことが分かり、最後には両者とも、「こういう状況でお別れしなければならないのは非常に悲しいですね」と涙ぐんでいました。私が出来ることなんて微々たることでしたが、間に入ったことで、少しでもお互いの気持ちを伝えられていたのであればいいなと切に思いました。そして、これこそがまさに私がやりたかったことだと思った瞬間でした。これをきっかけに、警察、入国管理局など司法関係のお仕事も請けるようになりました。

小学校でも教えていらっしゃったようですが
通訳の仕事をしながら、非常勤で教えに行っていました。半年間ぐらいです。これからまさに新しい言葉に触れようとしている子供たちに会うのは、毎回楽しみでした。「違う国では、違う言葉を話しているんだ」ということを教えるのが私の役目だと理解していたので、型破りな授業でしたが、海外のマクドナルドでの注文の仕方、メニューの見方等を皆で勉強しました。「フライドポティトォ!と言っても伝わらないよ!」といった具合に(笑)。また、「外国語」というと、英語に結びつける生徒が多かったので、合同クラスにしてペルシア語の授業を開かせて頂きました。英語の他にも様々な言語があるということ、そして外国語を学ぶことは、言葉だけではなく、そこに住む人たちの文化や歴史を垣間見るきっかけになるんだということを伝えたかったんです。非常勤の分際で偉そうですが(笑)!

現在のスケジュールは?
3月末までは、2つの仕事をかけもちしていたので本当に大変でした。英語の校閲の仕事を週3日、別の会社にて社内翻訳を週2日です。校閲に関しては、内容が特許の分類に関する文書の日英だったので、用語もかなり特殊でしたが非常に勉強になりました。この他、空いた時間には単発で通訳の仕事も請けていたので、毎日フル回転でしたね。子供が生まれてから、毎日フルで働いたのは初めてでしたが、大変さを知らなかったから出来たことかもしれません。4月からは、自分のペースに戻ることが出来て、少しほっとしています。今までアウトプットが中心になっていたので、今後はインプットにも力を入れていきたいと思っています。
休日は、家族と過ごしています。息子と3人でどこかに出かけることが多いですね。仕事と家庭の両立は難しく、特に二ヶ国語を常にバランスよくブラッシュアップしていくには倍の時間がかかるので、睡眠時間を削って勉強しました。朝3時に起きて勉強、電車の移動や、お昼休みも勉強時間に充てていました。いずれにしても、息子も含めて家族の協力がなければ、この1年のインハウス生活は不可能だったと思います。

森さんの強みは?
二つの言語を勉強したことで、一つの物事をいろんな角度から捉えることが出来ることでしょうか。特に、司法関係の通訳では、こういうことが非常に重要になってきます。また、スキルは別にして、度胸だけはあります(笑)。

将来のキャリアプランは?
英語もペルシア語も、もっともっと極めていきたいです。3ヶ国語で通訳が出来るようになりたいですね。英語⇔ペルシア語の通訳にも挑戦してみたいですし。最終的には、興味のある法律プラス語学を通して、日本在住の外国人、その中でも特にいろんな理由から不利な状況に置かれている方々の手助けが出来ればと思っています。NYに住んでいた時、言葉が出来ないことで立場が弱くなってしまった経験からも、自分の活動が少しでもこういったことの緩和につながればいいなと思います。そして、常に自分の中にある様々な疑問を、仕事を通して少しずつ解決していけたらと。

もし通訳者になっていなかったら?
絶対に、小学校の先生です!当時は、子供と同じレベルではしゃいでいただけかもしれませんが、教室を離れても、皆で一緒にドッジボールやマラソンをやる機会にも恵まれ、大変有意義な時間でした。

大学院時代の先輩お手製のペルシア暦表。

通訳・翻訳者を目指す人へのアドバイスをお願いします。
時間が許す限り、ボランティアでもいいのでOJTを積んで下さい。実践を積むと、自分の強みや弱みが分かります。そこからまた学んでいければいいですよね。ペルシア語に関しては、まずどういう分野で自分が通訳をしたいのかを決めることです。ペルシア語は、分野によっても非常に異なりますので。また、NGOでの通訳需要は非常に高いので、是非ともチャレンジしてみてください。

【編集後記】

先輩お手製のペルシア語暦表に感激。毎回お仕事の度に持ち歩いていらっしゃるようです。「通翻訳者になっていなかったら、小学校の先生かな」とのご回答には納得!「世界にはいろんな言葉がある」とおっしゃった森さん、3ヶ国語通訳デビューの実現はきっともうすぐ!

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ハイキャリア編集部

テンナイン・コミュニケーション編集部です。
通訳、翻訳、英語教育に関する記事を幅広く発信していきます。

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