INTERPRETATION

第368回 憧れ

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

語学学習にせよ運動にせよその他習い事にせよ、長続きさせて習慣化するには、それなりの心構えが必要です。「始めたけれど、続かなかった」という回数が増えれば増えるほど、ダメダメ人間に自分が思えてくるからです。少なくとも昔の私はそうでした。

たとえば「やっぱり大事なのは日々の積み重ね。英字新聞を読み続けないと英語力は上がらないものね!」と意気込んで始めた自宅購読。最初のうちこそ、真面目に読んでいました。けれども忙しくなるにつれ、新聞を読むことが二の次となり、床の上には未読の新聞がどんどん積み重なっていきます。埃をかぶって床に放置された新聞を見るたびに、自分の努力不足と行動力の無さを突き付けられる感じになりました。そして「ああ、やっぱり自分は意思が弱い。よし、今日こそ帰宅したら絶対に読もう!」と誓って、結局はまた手付かず、ということを繰り返していたのです。最終的にはひっそりと(?)購読を解約したのでした。残されたのは敗北感だけでしたね。

もちろん、どのようなことであっても自分が関心を抱いたのであれば始めてみる、つまり一歩を踏み出すことはとても大切です。けれどもそれを本格的に続けていきたいというのであれば、やはり環境を整えたり、時間を捻出したりということが大事になってきます。先の英字新聞に関して言えば、当時の私の状況として「そもそも日本語新聞に加えて英字新聞を読むための時間を確保できなかった」ことが最大の敗因です。と同時に、「他の趣味に充てていた時間をあきらめてでも、英字新聞を読もうという『覚悟』が不足していた」と言えるでしょう。

では「時間がない」「やる気不足」という場合、何があれば前へ進めるでしょうか?実は最近、私がとても重視していることがあります。

「憧れの存在」です。

今生きておられる方でも故人でも構いません。「あの人のようになりたい」という対象を持つことは、自分が前進する上でもパワーになります。逆に目標がない状態で歩み続けるには、相当の気力が必要になってしまうのですね。

たとえば私の場合、通訳者として本格稼働する前に、とある勉強会でお目にかかった同時通訳者がいます。アポロの同時通訳に携わった故・西山千先生です。

先生はすでに当時、現役を引退されていました。が、その勉強会に特別にいらしてくださり、同時通訳を披露してくださったのです。美しい日本語と英語はもちろんのこと、穏やかなお声、姿勢をぴんと伸ばし、凛としたお姿は神々しくさえ見えました。その日を境に私は、いつか将来、自分も西山先生のような同時通訳者になりたいと思ったのです。

もう一点、憧れに加えて私が意識しているのは、「自分の身の回りで頑張っている人」の存在です。同じ分野や業界の人でなくても構いません。「きっとあの人も、今、この瞬間に頑張っているはず」と思えるだけでも、自分にエネルギーが湧いてくるように感じます。

憧れの人。

頑張っている人。

そうした方々からモチベーションを私は頂いています。ありがたいことと思っています。

(2018年10月9日)

【今週の一冊】

「作家のおやつ」コロナ・ブックス編集部著、平凡社、2009年

甘いものが好きな私ですが、味以上に注目するのが「見た目」です。海外生活を終えて帰国した際、とても感動したのが洋菓子・和菓子の美しさでした。どれも繊細なデザインで、サイズも小柄。控え目な印象を受けます。かつてニューヨークでアップルパイを注文した際、どーんと巨大なパイの上にアイスクリームが3スクープも載っており、びっくりしたことがありました。日本のスイーツはその逆で、自己主張しない雰囲気が良いですね。

今回ご紹介するのは、日本の作家たちが愛したおやつをテーマにした書籍です。三島由紀夫、坂口安吾、向田邦子といった作家もいれば、写真家の上田正治や児童文学作家の石井桃子が紹介するおやつも出ています。老舗のお菓子もあれば、自家製のおやつもあり、その種類の多さが魅力的です。

本書はカラー写真が豊富にあり、店舗名も記載されています。現存しているお店もあれば、惜しまれつつ閉店した老舗もあります。中でも私が一番魅了されたのが、かつて神保町にあった柏水堂というお店です。小津安二郎を始め著名人が愛した店舗で、店内はレトロ。ステンドグラスもある素敵なお店であることがわかります。数年前に閉店してしまったそうです。

ページをめくると作家たちが直筆で書いた原稿もあります。川端康成の原稿は何度も推敲のあとがあり、映画監督・市川崑の文字は独特です。沢村貞子は毎日の食事をノートに細かく記していました。デジタル到来のはるか前に、こうして自分の字で物事を記録していたいにしえの人たちの文字からは、様々なことが醸し出されているように私は感じています。

おやつに興味のある方、日本の文学や作家に関心のある方にぜひお勧めしたい一冊です。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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