INTERPRETATION

第367回 転機

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

「どのようなきっかけで放送通訳者になったのですか?」という質問を受けることがあります。私の場合、中高生時代に目指していたのはジャーナリストでした。書くことがもともと好きで、新聞記者になりたいと思っていたのです。けれども大学進学後は新聞部があったにも関わらず、クラスメートにつられてギター・アンサンブル部に入りました。クラシックギターです。フォークギターとは異なり、クラシックの場合はペグを使いません。よって、弦を押さえる左手の爪は短くする一方、弦をはじく右手爪は伸ばすことになりました。それまで20年近く続けてきたピアノをこの時点で封印し、私はクラシックギターの世界に入ったのでした。

大学時代の私はバイトに明け暮れる始末で、真面目な学生とは程遠い状態でした。どの授業にも今一つ関心が抱けなかったのです。ただ、英語だけは好きでしたので、英語関連科目はとりました。そのとき偶然選んだのが通訳の授業だったのです。「これほどハードで緊張ばかりしている仕事が世の中にはあるのか」と衝撃を受けました。と同時に、ここまで自分の好奇心を満たしてくれる、知的興奮あふれる分野があるのならば、もっと勉強しようと思ったのでした。

大学卒業後は一般企業に就職するのですが、通訳の勉強は続けていました。そして入社から半年後に私の人生を大きく変える転機が訪れたのです。

ギター部に誘ってくれた友人を、事故で突然喪ったことでした。

その日は勤務先で創立記念パーティーがありました。入社一年目の私はパーティー終了後に片づけをしていたのですが、そのとき上司から「お花が余ったから持って帰って良いよ」と言われ、たくさんの花束を手にして自宅へ戻ったのでした。帰宅後は家中の花瓶をかき集めてお花を移し替えました。

その数日後、私は訃報を知らされました。聞けば、亡くなった時刻は私がお花を家で差し替えていたときだったそうです。私は超能力や超心理学などを信じるタイプではないのですが、このときだけはその偶然性について色々と考えさせられました。「お花を活けていたときに、あの世に送り出してあげられたのかも」という思いが、私にとってせめてもの慰めでした。

その日を境に私の人生観は変わりました。生きていくうえで「絶対的な保証」は一つもない、ということです。「あとでね」「また来週会いましょう!」などのことばが本当に実現できるのは、良き偶然と運の数々が積み重なるからこそ、と考えるようになりました。と同時に、「自分の一生は一度しかない。ならば自分が本当に納得できる生き方をしよう」と思うようになったのです。

人にとっての「喪失体験」は色々あると思います。私のような経験もあれば、物理的・心理的な別れもあるでしょう。「仕事で立ち直れないぐらい大変な目に遭った」ということも、ある意味では自信を失うものですので同様の喪失体験だと思います。

ただ、私自身に関して言うと、とにかく前に踏み出すしか選択肢はありませんでした。もちろん、解決法は人それぞれです。周囲に相談して助言を得るだけでも心は救われます。けれども本人が徹底的に考えに考えた上で結論を出し、そこから前進することこそが、最善の解決策になると思うのです。

渦中にいると、あまりの辛さに周りが見えなくなるかもしれません。けれども自分が一歩を踏み出せばそれが「転機」となり、新しい人生が開けてくると私は考えます。今、私が放送通訳という、10代前半に夢見たジャーナリズムの世界に入ることができたのも、そうした数々の一歩とご縁が積み重なったおかげと感謝しています。

だからこそ今悩んでいても、どうかあきらめず、投げやりにならず、進んでほしいのです。「この世に生まれてきた誰もが、必ずや世界のどこかを支える人になれる」と私は強く信じています。

(2018年10月2日)

【今週の一冊】


「カラー版 重ね地図でわかる 東京・首都圏未来予想図」別冊宝島編集部著、宝島社新書、2018年

私が初めて地図の魅力に惹かれたのは小学校2年生、7歳のときでした。当時我が家はアムステルダムに暮らしており、高速道路を使ってよく旅行に出かけていたのです。ところが助手席の母は大の方向音痴で地図を見るのも苦手。ハンドルを握る父が母のナビにしびれを切らしては、道を間違えるということを繰り返していました。そのようなある日、後部座席から私が「ちょっと地図貸して」と言って自分なりに方向を伝えたところ、スムーズに目的地へ到着。両親も喜び、私も幼心に達成感で満たされました。以来、紙地図は私にとってなくてはならない存在です。つい最近になって我が家の車にようやくカーナビを導入しましたが、最後まで買うことに抵抗していたのも私です。

今回ご紹介するのは、東京の従来の地図に未来地図を重ねた一冊です。目下、新国立競技場や首都圏各地で進められている再開発により、東京はどんどん変化しています。本書の未来地図ページは厚地のトレーシングペーパーのような素材になっており、それを重ねるとどのような変化を今後遂げていくのかがわかります。

昔、私が勤めていた有楽町・日比谷近辺も、最近大いに変わりました。その代表例が今春オープンした東京ミッドタウン日比谷です。かつてここには日比谷三井ビルディングと三信ビルディングがありました。中でも三信ビルは私のお気に入りのレトロ・デザインで、会社員時代、よく出かけていましたね。名前の由来は「三井信託」から来ています。1時間しかない昼食時間、先輩方と近場でランチをいただいた後、三信ビル1Fにあった「ニューワールドサービス」という喫茶店に行ったことを覚えています。全体的にウッド調で革張りの椅子でした。ビル解体・閉店が決まったときにはファンがたくさん詰めかけたそうです。

本書には他にもたくさん紹介されているのですが、中でも個人的に注目しているのが「(仮称)新橋一丁目プロジェクト」。来年7月に完成予定です。私は時々、放送通訳の仕事の後、新橋や日比谷まで数十分かけて歩くことがあります。そのエリアにこの建物はできるそうで、今から楽しみです。説明を読むと、ここにはオフィスビルとホテルが入るとのこと。オフィスビル事業者はNTT都市開発、ホテル事業者はJR九州です。

ちなみに「なぜ東京なのにJR九州?」という素朴な疑問を考えるのも、これまた私には楽しいひとときです。想像するに、JR九州は近年豪華列車に力を入れていることから、プレミアムクラスのホテルを東京でも展開したいのではないでしょうか。

本書はオリンピック開催地関連の情報も多く出ています。2020年到来前に一読すると、五輪もさらに楽しめると思います。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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