INTERPRETATION

第375回 自分なりの基準を持つ

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

通訳者をめざしていた20代のころ、私にとって忘れられない出来事が2度ありました。理想の通訳者像を追い求めていた時期です。

当時の私は迷っていました。なぜなら通っていたスクールでは「全訳するのが良し」と指導されていたからです。「通訳者は何も足さず何も引かず、ただ忠実に黒子として話者の述べたことをすべて訳すように」という価値観が非常に強い時代でした。

ただ、私はこの考え方を一歩引いてとらえていました。「本当に全訳が良いのだろうか?聴き手と言っても時と場合によりけり。専門用語をマシンガン的速度で言われても聞き流されるだけなのでは?」という思いが強かったのです。

「では自分ならどう訳すのか?」その答えはありませんでした。なぜならまだ通訳力も英語力も発展途上の自分にとって、何をそぎ落としてよいかの価値判断ができなかったからです。「ここは落としても良いかな」と思っても、「もしかしたら話者はそこを実のところ重視しているかもしれない」と考え直すと、大胆に編集することは怖くてできませんでした。

転機となった出来事一つ目。それは著名な実業家でありヴァージン・グループの創業者であるリチャード・ブランソン氏の講演会を聞きに出かけたときでした。イギリス出身のブランソン氏は、航空業界に革命を起こしたことで知られており、当時、すでに著書も出ていました。本を通じて私もその考え方に感銘を受けていたため、横浜まで足を運んだのです。

当日、通訳を務めていらしたのは、おそらくそのお声からして小松達也先生だったと思います。小松先生は通訳業界の黎明期を築いてこられた方で、NHKの語学講座なども担当なさっていました。イヤホンから聞こえてくる声のトーンや口調から察するに、これは小松先生に違いないと私は思ったのです。

先生の通訳は「とにかく美しい」の一言に尽きました。ブランソン氏のお考えを100パーセント理解なさっており、それゆえにブランソン氏が発言なさる内容を予測するかの如く、流れるような通訳だったのです。速度も聞きやすく、声に温かみがありました。ブランソン氏の発言と小松先生のお声を同時に聞きながら、私は改めて思いました。「内容を知っていることがいかに大事であるか」と。ゆえに私は知識力で対応できるような通訳者になりたいと思うようになったのです。

もう一つ、「理想の通訳者」をめざすきっかけとなったのが、アポロ月面着陸の同時通訳で有名な西山千先生の通訳を直に拝見したことでした。当時通っていた英語塾に特別ゲストとして先生がいらっしゃり、私たちの前で同時通訳を披露してくださったのです。すでにその当時、80歳ぐらいであられたと思うのですが、背筋をピンと伸ばし、目には微笑みをたたえ、口角を上げて通訳をなさったお姿は私にとって衝撃的でした。元の話者の話題が和やかであった分、その雰囲気を聴き手に伝わるように訳していらっしゃったのです。その美しさに私は惚れ惚れしたのでした。

極端に聞こえるかもしれませんが、「通訳者の発する言葉は芸術作品である」と私はとらえています。つまり、美しさが必要なのです。見られる職業であるがゆえに、だらしなくなってはいないか、お客様が心地よく受け止めてくださるアウトプットであるかを意識しようと私は思うようになったのです。それぐらい、この2つの出来事は私の仕事基準を築く上で画期的なものとなりました。

古美術の仕事をする人は、本物だけを見続けて感覚を養うと言われています。通訳デビュー当初から今に至るまで、私は諸先輩方や同僚・後進の皆さんの通訳に接する機会に恵まれました。素晴らしい通訳アウトプットは私に刺激を与えてくれます。これからも良き部分はどんどん取り入れたいと感じます。それが最終的にはお客様にとって喜ばれるプロダクトとなるからです。

(2018年12月4日)

【今週の一冊】

「たのしい路線図」井上マサキ・西村まさゆき著、グラフィック社、2018年

ロンドンに暮らしていたころ、しげしげと眺めていたのが地下鉄の路線図でした。London Undergroundとして有名な地下鉄ですが、最近はTransport for Londonという名称を駅や印刷媒体などでずいぶん見かけるようになりました。ロンドンの地下鉄においては使われる字体に細かい規定があります。歴史的にも古く、デザインの視点から見ても実に美しいと私は感じています。

ロンドンの地下鉄路線図がきっかけとなり、他の場所でも路線図に注目するようになりました。日本でもJRを始め、私鉄や地下鉄などがそれぞれの路線図を掲示しています。本書はその路線図を網羅した楽しい一冊です。

利用者にとって使いやすいよう工夫が施されている路線図ですが、実は私たち乗客が思っている以上に詳細にまでこだわりがあることが本書からはわかります。グラフィックデザイナーの方のインタビューも掲載されています。

中でも私が関心を抱いたのは、「路線図鑑賞のポイント」として掲げられている4点です。とりわけ面白いのが「時空の歪み」。通常の地図は東西南北の方角が決められており、距離も正確です。けれども路線図の場合は見やすさが最優先。地図とは目的が異なるのですね。たとえば横浜高速鉄道みなとみらい線は現在、埼玉県まで延伸しています。その路線図を見てみると、距離感や方角も独自になっています。路線図のスペース節約のため、渦巻き状に路線と駅名が折りたたまれている感じで図示されているのです。しかも南北が上下逆になっています。一方、りんかい線の路線図を見てみると、そこに描かれている山手線は平行四辺形です。山手線イコール丸型という先入観は覆されます。

こうした多様な観点から眺めると大いに楽しめるのが路線図。普段何気なく視界に入れている路線図も、ウォッチングしてみると色々な発見があります。そのヒントが満載の一冊です。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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