INTERPRETATION

第66回 教えるという仕事

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

4月になり、新たに大学や通訳学校などで学び始めた方もおられることと思います。私自身、学生・受講生として勉強していた頃は、授業の初日は大いに緊張したものです。「どんなクラスメートがいるのだろう」「先生と相性が良いといいなあ」などと考えて教室に入ったものでした。今は教える立場にいますが、それはそれでドキドキするものです。

さて最近、指導をするうえでヒントを得る機会がありました。それを与えてくださったのは近所のカフェのマスター、もう一人はスポーツクラブのインストラクターです。

そのカフェは数年前に開業し、マスターが一人で切り盛りしています。豆やコーヒーグッズの販売がメインですが、小さなカウンターがあり、淹れたてを頂くこともできます。先日たまたま豆を買いに行った際、マスターが「せっかくですから試飲もどうぞ」と言ってくださいました。

夫も私もコーヒー好きなので、好奇心から色々と尋ねてみました。豆の見極め方、コーヒーのおいしい淹れ方などです。そのとき感じたのは、マスターがご自分の哲学こそあれ、それを決して私たちに押し付けていないということでした。

たとえば電動ミルと手動ミルについて伺った時も、「やはり今は忙しい時代ですから、別に電動でも良いと思いますよ」と穏やかにおっしゃるのです。よくグルメ番組などでは「究極の〇〇」「△△がおいしさのヒミツ」など、店主のこだわりが紹介されます。けれどもこのカフェのマスターは、「一番大事なのは豆そのものの品質」ということ以外は、「おいしく飲めればそれで幸せ」という雰囲気なのです。ご自身がコーヒーを心から愛していらっしゃることがわかります。

一方、スポーツクラブのインストラクターも、やはり「体を動かすことが好き」ということが根底にあり、それがレッスンでもあふれています。ご自身も相当トレーニングをしているのがわかります。運動に関する知識を出し惜しみせず、レッスンをいかに参加者に楽しんでもらうか、そのために努力しているのが感じられるのです。私自身、指導者としての年月が長くなると、「先生」と名のつく人の授業は雰囲気で何となくわかります。実力を出せば出るはずなのに出し切っていない講師だと、それが感じ取れてしまうのです。逆に指導法やクラス運営に多少問題があっても、一生懸命授業を進めている人であれば応援したくなります。

今回マスターとインストラクターのお二人を見て、私は次の結論に至りました。

1.方法を分かりやすく教える
2.自分の専門分野を心から愛し、自分も楽しんでいる
3.自分のやり方を押し付けない

いよいよ私も来週から授業が始まります。英語や通訳、知識や学びそのものへの愛情を学生たちに感じ取ってもらうにはどうしたらよいか。考え続けたいと思っています。

(2012年4月9日)

【今週の一冊】

「ママの足は車イス」又野亜希子、あけび書房、2009年

著者の又野亜希子さんは元幼稚園教諭。結婚を機に保育士の資格を取るべく短大に入り直し、資格を取った後は群馬県の保育園で働き始めた。しかしその数か月後、交通事故に遭い、頸髄を損傷してしまう。夫や家族の励ましを得ながらリハビリを克服し、やがて女の子を授かった又野さんがどのような気持ちの変遷を経て来たかが本書には綴られている。

この本を買ったのはひょんなきっかけからだった。たまたま地元図書館に置いてあったチラシに又野さんの講演報告が出ていたのである。読むと事故で首を痛め、車イスで生きていくことを宣告され、手も不自由とある。それでも子育てをして、明るく美しく生きる姿が写真からはかもし出されていた。

中でも感動的だったのは、ご主人を始めとする家族や親族の方々の献身的なサポートである。また、又野さんの友人たちは又野さんを特別扱いせず、本人の自立を尊重するという自然なアプローチをしている。それが又野さんに生きる力を与えている。一度は自殺や離婚を考えた又野さんが、心の変化を率直につづる勇気も素晴らしい。

とりわけ私が何度も読み直したのは、お母様の手紙の引用である。

「(中略)あなたには生きてやらなければならないことがある。やってほしいことがある。あなたを必要としている人がいる。だから死ななかったのです。死ねなかったのです。」

人にはそれぞれ使命がある。自分に与えられた使命は何か。それを考え、大切にしながら社会のお役にたちたいと私は思っている。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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