INTERPRETATION

第67回 感謝の気持ちを伝えること

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

私は子どものころからパンが大好きで、おいしいパン屋さんを探しては出かけています。ここ数年はインターネットのグルメサイトで地元パン屋さんの情報が載るようになり、訪ね歩くのも便利になりました。

我が家の近所にも色々なパン店があります。週2日だけ開店するお店、自宅をおしゃれに改装した店舗、ショッピングモール内のチェーン店、駅ナカカフェなどです。そのうちの3店舗ほどがアクセス良好なので頻繁に訪れていたのですが、このたび新たに開拓することにしました。

ネットで調べたところ、自転車で20分ほどのところに2店あります。最近できたお店と昔からあるお店のようです。まずは新しい方へ出かけてみました。

「いらっしゃいませ」という店員さんの声に迎えられて入った店内は実におしゃれ。今までにはない珍しい種類のパンが売られています。お総菜パンとお菓子パン、いずれも独創的な商品が並んでいました。子どもたちが喜びそうなかわいい動物型のパンもあります。早速自分用の昼食と、子どもたちのおやつパンを購入しました。

けれどもレジで商品のお会計をする際、何か違和感を私は抱いたのです。それは店員さんたちが無表情であったという点でした。

「いらっしゃいませ」「お会計お願いいたします」「ありがとうございました」など、挨拶ははっきりきちんと述べています。けれども目が笑っていないのです。これほどおしゃれな店舗でオリジナリティーあふれる商品を売っているのに、なぜ無表情なのでしょう。もったいないと思いました。

何となくモヤモヤ感が消えないので、その足で私はもう一店舗へ出かけました。実はこの日、私はツナ風味のパンが食べたかったのです。先のお店で入手できなかったので、もう一軒に期待しました。「ツナ系のパンはありますか?」と尋ねると、「いつもならツナサンドがあるんですけれども・・・あいにく今日は売り切れてしまいました。申し訳ございません」と店員さんです。私は結局野菜ジュースのみを買うこととなったのですが、お会計時に「すみませんでした、せっかく来てくださったのに」と別の店員さんがまたもや謝ってくださいました。

パン屋さんに行ったのに、買ったのはジュース一本だけ。それなのに笑顔で丁寧に接客してくださったことに私は嬉しくなりました。私はその後、近くの公園に向かい、一軒目で買ったパンと先ほどの野菜ジュースで「お花見ランチ」をします。けれども頭の中は2軒目のパン店のことをずっと考えていました。

私は商品を買ったり、何らかのサービスを受けたりすると、つい自分の本業である通訳や教師業にあてはめる習慣があります。人が喜んでくれるためにはどうすれば良いだろう、サービス提供者として大事なのは何だろうと思いをめぐらすのです。

今回考えたのは、「サービスを供給する私は、お客様のどんな反応が嬉しいか」というものでした。通訳業であれば、クライアントさんから「ありがとう」と言われることですし、教師であれば「先生の授業でやる気が出た」という言葉です。執筆者としての私ならば「読んで励まされた」と言われるととても嬉しくなります。

実はこの日、私は体調が今一つでした。午前中ずっとPCの前で根を詰める作業をしており、気分転換をかねて自転車を走らせ、パンを買いに出かけたのです。桜が見ごろだったにも関わらず、頭はボーっとしていました。

けれどもあの店員さんたちの一言のおかげで元気が出てきたのです。「そうだ、朝食用にパンを買って帰ろう」と私は思い立ちました。「せっかくだから幸せのおすそわけに義父母宅へも買っていこう」と考え、またお店に向かいました。

「さっきジュース一本しか買わなかったのに、親切に応対していただいてありがとうございました。嬉しかったのでまた来たんです」と告げると、店員さんたちの顔がパッと明るくなりました。その後も二言三言、ことばを交わし、私はお店を後にしました。

かつてイギリスに暮らしていた頃、レストランやお店でスタッフの方と会話をする光景は日常的に見られました。けれども日本では気恥ずかしいのか、それともそういう習慣が定着していないからか、まだまだ限られているようです。

良いサービスを受けたら感謝の気持ちを伝えること。

これもコミュニケーションとして大切だと私は思っています。

(2012年4月16日)

【今週の一冊】

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日本経済新聞(紙版)

今回ご紹介するのは日本経済新聞「紙版」である。「え?今は電子版の時代でしょ?スマホで読める時代だし」と反論が聞こえてきそうだ。でもあえて「紙版」にこだわるには理由がある。

以前もハイキャリアのコラムで新聞の読み方について書いたことがあるが、紙版のメリットは何と言っても「視認性」。つまりパッと見開きでたくさんの情報が入ってくることである。1面から最終頁まで、とりあえずパラパラとあの大きな紙面をめくっていると、色々なトピックに遭遇する。政治、社会、経済、株式欄、テレビ番組表、スポーツニュースなどなど。デジタルであればついつい自分の好きな分野だけに偏ってしまう。しかし、紙の新聞をめくってみれば、潜在的に多様なニュースを目にすることになるのだ。

通訳の仕事をしていると、多くの分野を扱うことになる。「私はITが得意ですが、財務は苦手です」などと言ってしまうと、仕事の幅を広げることができない。だからこそ新聞を毎日目にしてたくさんのテーマに触れることが大事なのだ。いつか仕事が来た際、「そういえば、ずいぶん前に新聞で読んだっけ」と思い出すだけでも、勉強のハードルはグッと下がる。

最後に、2012年4月10日火曜日朝刊に載っていた工藤公康氏の言葉を紹介する。工藤氏は現在、野球評論家を務めている。

「野球選手になったからといって本当の意味の”プロ”ではない。知識と経験を重ね、意思を持って自分を鍛えていく。そうした過程を経て生まれた自覚があってファンや周囲の人々に感謝できるようになる。その時こそ真のプロといえるのではないか。」

これは通訳者も同じである。こうした珠玉の言葉に出会えるのも、紙の新聞ならではと私は思っている。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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