INTERPRETATION

第423回 曲で涙する

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

90年代初めにロンドン大学に留学した際、私としては退路を断ったうえでの渡英でした。学費や留学費用はすべて自分の貯金で賄うことを自分に課し、とにかく修士号をとることを目標にしたのです。9か月間の修士課程でしたので、アメリカの「2年間大学院生活」と比べると学費も手の届くものでした。

ところがところが、通常であれば2年かけて学ぶことを9か月に凝縮するのですから、必然的に密度は濃くなります。課題図書は山のようにあり、エッセイ(課題レポート)を沢山書かされ、早口英語のレクチャーにはついていけず、指導教官との面接授業では自分のエッセイが学術基準からはるかに遠いことを思い知らされるなど、自分にとっては落ち込むことばかりでした。

「一体なんでこんな苦労を背負ってまで留学しようと思ったのかしら?」

大学院生活開始から数週間、このように自問自答する日々が続きました。しかも秋から厳しいイギリスの冬到来もあり、気分はますます滅入っていきました。ストレスでヘルペスに見舞われ、香港風邪で咳は止まらずという状況にもなりました。

そうした中、クラシックコンサートに学生料金があることを知り、気分転換もかねて行ってみました。テムズ川南岸にあるロイヤル・フェスティバル・ホールでは、開演2時間前の時点でS席が残っていた場合、それを最安値で学生向けに販売するというシステムがあったのです。

これは私にとって「音楽鑑賞」などというぜいたくではなく、厳しい課題から逃れるための「言い訳」となりました。コンサートホールのシートに着席してしまえば、音楽を味わう2時間ほどは課題のことを忘れていられます。夜の7時半から10時近くまで、私にとっては至福のひと時でした。その分、最後の演目の最終楽章が始まると、「ああ、この曲が終われば現実に引き戻されてしまう。寮に戻って課題をやらねば」と暗澹たる気持ちになったものでした。

ちなみに私のお気に入りの指揮者はラトビア出身のマリス・ヤンソンスです。留学中に見たロンドン・フィルのコンサートで客演指揮者をしていました。振りのあまりの美しさにすっかり魅了され、今なお大ファンです。今年1月には追っかけでロンドンまで聴きに行ったほどです。2018年秋の来日公演が病気キャンセルになったため、「ならば私から聴きに行く!」と出かけたのでした。

留学時代に聴いたコンサートはたくさんあり、すべてを覚えているわけではないのですが、強烈な印象がいまだに残るアーティストは何名かいます。いずれも心を揺さぶられる演奏で、聴きながら涙ぐんでしまったほどでした。

その一人目がピアニストのアルフレッド・ブレンデル。牛乳瓶の底のような分厚い眼鏡をかけ、風貌は大学教授のようなのですが、非常に魅了されました。曲目はベートーベンのピアノ協奏曲第3番。鍵盤を弾きながら、トレードマークのメガネがずり落ちるのを頻繁に上げていたのが印象的でした。特に第2楽章から第3楽章にあっという間に入ったのが今でも脳裏に残っています。当時の私の心境に響いた演奏でした。

もう一人心に残っているのは、バイオリニストのチョン・キョン・ファ。曲目はブラームスのヴァイオリン協奏曲です。舞台袖からツカツカツカと舞台中央に歩み、指揮者と目で合図。オケの演奏に合わせてヴァイオリンのメロディが重なります。私はその日、最前列の席でした。見ていると、ご本人は履いていたハイヒールを脱いでそのまま演奏し始めたのです。後ろの座席からは見えなかったと思いますが、私からはしっかり見えました。情熱のこもった演奏で、この時も涙が出てしまったほどです。

音が人の心を揺り動かすということ。これは音楽ならではの力だと思います。もちろん、涙が出るということはそのときの自分の心境にもよるのでしょう。当時は焦りと落ち込みと先行き不透明さに見舞われていましたが、今、振り返ってみると逆に懐かしさばかりです。人生には無駄なことは何一つないと改めて感じます。

(2019年12月10日)

【今週の一冊】

「ビジュアルストーリー 世界の秘密都市」ジュリアン・ビークロフト著、大島聡子訳、日経ナショナルジオグラフィック社、2019年

建築や廃墟、戦争遺跡などにもっぱら関心があります。今回ご紹介する書籍のキーワードは「秘密都市」。現在使われている場所もあれば、ゴーストタウンと化した所もあります。修行者たちが暮らす場所は一般人の立ち入り禁止ですし、その一方で戦時中に秘密の司令部として機能した場所も残されています。本書をめくると、世界は広いということを改めて感じると同時に、同じような思考で街をつくっては歴史的過ちで廃墟にさせてしまうという、人間の愚かさがわかります。

数週間前のこと。アメリカの若い女の子が「マスカラ・ビューラーの使い方」と見せかけてチベット問題を動画で訴えていました。もっとチベット問題に注目してほしいというのがメッセージです。そのチベットも本書には出ています。中国・四川省にあるラルンガル仏教学院は世界最大の宗教共同体都市だそうです。大きな僧院の周りには僧侶たちが寝起きする小さな小屋がびっしりと立ち並んでいます。

核開発のために大量の人員を導入すべく建てられたアパート群、ムンバイのスラム街、ルーマニアの観光名所・ヴィエリチカ岩塩抗、アフリカや中南米の監獄島など、どの写真も見ごたえのあるものばかりです。ナショナルジオグラフィック誌のカメラアングルはどれも斬新で、観る者に迫ります。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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