INTERPRETATION

第73回 感動体質を作る

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

通訳業は緊張感を強いられる仕事です。訳語を間違ってはならない、人が見ているので姿勢や発声にも気をつけねばならない、予習の量が膨大など、業務依頼時から本番終了まで、気が張ってしまいます。私の場合、お酒に強くありません。ですので、仕事を無事終えたら陽気にワインで打ち上げというシナリオもなく、カラオケも得手ではないため、歌って解放ともならないのです。その代わり、ここ数年意識しているのが「小さなことにも感動する体質を作る」です。「わあ、嬉しい!」と小出しに心を喜ばせることで、緊張感を緩めるようにしています。近年では以下の10個が感動ポイントとなっています。

1.お金を両手で受け取ってもらった
日本の場合、店員さんはお金やカードなどを必ず両手で受け取ります。しばらく海外暮らしを経て帰国した時、この「両手で受け取る」という作業に私は感動したのです。所作が美しく丁寧。しかも落とす心配もありません。「お預かりします」と一声添えるのも良いですよね。外国ではクレジットカードも片手受け取り・片手返却でした。それだけに感動ポイントです。

2.セロテープを折り返す
これは書店で本を買った時のことです。袋に入れた後、店員さんはセロテープでとめるのですが、あとで取りやすいようにとセロテープの端を5ミリほど折り返してくれるのです。レジ袋についたテープは何かとはがしづらいもの。その負担を軽減するために折り返してくれるのですね。思いやりの心です。

3.家具搬入時にマットレスが敷かれたこと
先日本棚を新調しました。組み立て済みの本棚を室内へ搬入する際、運送業者さんが廊下にわざわざマットレスを敷いてくれたのです。また、作業開始前には「一緒に壁や廊下の点検をお願いします」と言われました。こちらは搬入後にキズが付いた云々のトラブルを避けるためです。「キズを付けてはならない」という心配りと丁寧な作業を嬉しく思いました。

4.「ご案内します」と棚まで誘導してくれる
かつてイギリスに暮らしていた頃、店員さんに商品のありかを尋ねたことがありました。その時の答えが”No, I’m busy!”だったのです。棚卸作業中だったので、その場を外せなかったのでしょう。けれどもせめて”I’m sorry but…”が枕詞に付いていたらなあと思ったものでした。一方、日本ではどんなに忙しくても必ず手を休めて、その棚まで案内してくれます。

5.思いやりのあいさつ
数年前、国内線を利用したした時のこと。朝から雨が降っていました。乗客が搭乗を終え、ドアが閉まり、あとは離陸許可を待つばかりでした。通常、機長のアナウンスは安定飛行に入ってから行われますが、この日は離陸前にあったのです。「本日はお足元の悪い中・・・」という挨拶で始まりました。離陸前というのは一番忙しい時間帯のはずです。それなのに乗客のために一言述べてくれた機長さんのお心遣いに感動しました(あまりにも嬉しかったので、帰宅後、会社のHPから「お客様の声」コーナーにお礼のメッセージを送ったほどでした!)。

6.帽子を取って挨拶
最近は帽子もファッションの一部となっており、屋内でもかぶったままの人が増えています。けれども本来は目上の人の前や部屋の中ではかぶらないものです。また、挨拶の際にもきちんと取るのがマナーです。以前、週末に子どもたちを連れて小学校の校庭で遊んだことがありました。偶然息子の担任の先生がいらしたのですが、帰り際ご挨拶をすると、先生は日よけの帽子をわざわざ取り、挨拶してくださったのです。その時の所作の美しさは今でも覚えています。

7.お辞儀をするということ
たとえば新幹線で車内検札を終えた車掌さんは、次の車両に行く前に必ずお辞儀をしています。イギリスから帰国した直後は「きちんとお仕事をしているのだから、わざわざ振り向いてお辞儀しなくても良いのでは?」と思っていました。けれども「扉の所でお辞儀をする」というのは一つの慣習なのですね。私が通うスポーツクラブでも、レッスンを終えたインストラクターさんはスタジオから出る前にお辞儀をしています。日本ならではの礼儀だと思います。

8.パッケージのデザイン
先日お土産に海外のビスケットを頂きました。私のお気に入りブランドです。ところが日本のパッケージに慣れた私は「開け口」をひたすら探す始末。そうなのです、外国のものには切り取り線や切り口などは付いていないことが多いのですよね。日本ではお店の棚に置きやすいよう、箱の表と裏ではデザインがそれぞれ横や縦になっていたり、保存しやすいようジッパーが付いていたりと工夫が施されています。「企業側の思いやりだな~」とついほれぼれしてしまいます。

9.時刻が正確
日本ではあまりにも当たり前になっている、公共の場所の時計の正確さ。特に駅の時計は秒針まで合っています。以前イギリスで鉄道ファンのイベントに参加した時のこと。「日本の新幹線は秒単位で動いている。駅の時計もすべて正確」と私が話した際、信じてもらえませんでした。日本人が几帳面であるのも、こうした公共の場の秩序によると私は思っています。

10.笑顔のサービスがあれば幸せ
最近私がお店や飲食店で一番評価するのが「接客」です。笑顔、迅速、丁寧であれば完璧だと思っています。たとえばレストランに入店したらすぐに「いらっしゃいませ」の声と共に入口までスタッフが来るかどうかです。なかなか人数を聞きに来ない、無表情という場合はがっかりしてしまいます。こちらは非日常の空間と時間を味わいたいと思っていますので、気持ちの良いサービスの方が嬉しいですよね。アサヒビール名誉会長の樋口廣太郎氏が「大きく声を出していつも元気にニコニコしていれば、大抵のことはうまくいく」と記しています。サービスを提供する側も受ける側も、これは大切だと思います。

こうした小さなことに感謝しながら、これからも毎日を丁寧に生きていきたいと思っています。

(2012年6月4日)

【今週の一冊】

「ブッダにならう 苦しまない練習」 小池龍之介著、小学館、2011年

小池氏の本は数年前に「考えない練習」を読んで以来である。今回はブッダの経典を小池・訳で味わいつつ、色々な観点から苦しまない方法が綴られている。

東大卒で住職を務めているぐらいなので、さぞ品行方正に育ったのかと思っていた。ところが実は若かりし頃、かなりアウトローな部分があったと言う。奇抜なファッションをしてみたり、他人からは奇行に思われたり。そうした段階を経て今の小池氏があるのだろう。

本書を読んで一番感じたのは、「とにかく今という瞬間を大切にすること。」

過去に執着するから苦しくなる。未来を思い悩むから辛くなる。そんな心の状況の際は「今」を生きていない。だから目の前のことが疎かになってしまうのだ。エネルギーが注がれなければ、そこでミスも生じるだろう。私自身、物を落としたり、どこかに体をぶつけたりということがある。そんな時は大抵、心ここにあらずなのだ。

人間というのはつい悩みを抱いては心の中でこねくり回してしまうのだそう。そんな苦しみに酔うのも人間の習性なのかもしれない。でも、今を幸せに生きたいのであれば、今、この瞬間の自分の意識をしっかりと対象に向けるのが大事だ。そのことに気付けた一冊であった。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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