INTERPRETATION

第435回 「正しく恐れる」

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

数年前に指導先の通訳学校で「国境なき脅威」という教材を扱いました。テーマは感染症です。今や多数の人々が飛行機で移動する時代。どれほど厳密に予防策を講じていても、人が媒介となり、あっという間にパンデミックになりうるという話題でした。その当時は「まあ、理屈から言えばそうだけれど、そこまで恐ろしいウイルスなど無いのでは?」と理系音痴の私は思っていたほどでした。

ところが数週間前に中国・武漢で発生したコロナウイルス。局地的・期間限定的と誰もが思っていたはずですが、今や全世界的に広がりを見せています。まさに驚異的なスピードで発症件数が増えているのです。ワクチンや確固たる治療法がないこと、ウイルスという「眼に見えない脅威であること」が、人々の不安をより深刻化させています。一日も早く状況が改善・収束されることを願うばかりです。

放送通訳現場でもコロナウイルスはトップニュースです。ちなみに2番目がアメリカ大統領選で民主党のバイデン候補が躍進しているという話題。ついこの間まではトランプ大統領の話題ばかりでしたが、大統領が画面にお目見えする時間自体が減っている印象です。世の中というのはいつ何がどう起こるかわからないとしみじみ思います。

さて、今回のコロナウイルス。予防をしたり正しい知識を得たりということが大事なのは言うまでもありません。けれども連日この話題ばかりに接していると、かえって気が滅入ってしまいます。ですので私自身、放送通訳現場で接するとき以外はあえて触れないように意識しています。

そうした中、堀江貴文さんと佐藤優さんのそれぞれのコロナウイルスに関する記述をネットで読みました。お二人とも実に冷静です。堀江氏は「騒ぎ過ぎなのでは?」と言及したうえで、むしろ日ごろから睡眠・栄養・運動など日常生活において心がけるべき有り方を唱えておられます。一方、佐藤氏は正しい知識を吸収することが大事だ説きます。私も同感です。

ちなみに予防策も海外と日本では異なるようです。アメリカのCDC・疾病対策センターやイギリスのNHS・国民保健サービスのサイトを見ると、どちらも「手をよく洗う」「感染者に近づかない」などと日本同様のことが出ています。しかし日本のように「うがい」「マスク」を強調していないのです。「マスクを健常者がしても完全なる予防にはならない」とすらあります。

とは言え、日本同様の買い占めは海を越えた向こうでも起きています。欧米では「白マスク=医療従事者が着用するもの」という認識があり、普段マスク姿の人はほとんどいません。それでもマスクが売り切れているあたり、人々がいかに不安に陥っているかがわかります。日本と同じく紙製品が売り切れており、アメリカのコストコですらティッシュやトイレットペーパーが完売です。今やSNSの時代ということもあるのでしょう。誰か一人が不安感を口にするや、それが雪だるま式に不安を招き、人々の消費行動にまで影響を及ぼしてしまうご時世なのです。

一方、笑うに笑えない展開もオーストラリアでは発生:
https://www.abc.net.au/news/2020-03-06/queensland-toilet-paper-accidental-purchase/12031070

48ロールのトイレットペーパーを購入したと思いきや、48箱も買ってしまったというご一家です。その数、何と12年分のトイレットぺーパーだとか。オンラインで購入したがために、合計金額3264ドルという表示にも気づかず、数日後に巨大パレット2枚に段ボールが山積みされた状態で玄関先に届いたという、笑うに笑えぬニュースでした。

何にせよ、佐藤優さんの言う通り、世の中の出来事に対して私たちができることは、正しい知識を入れて「正しく恐れる」ことでしょう。不安な話題に触れ過ぎれば、かえって心がくじけてしまいそうです。世の中が「平常運転」とは異なる今であるからこそ、しっかりと落ち着いて日々を送りたいと思っています。

(2020年3月10日)

【今週の一冊】

「富豪への道と美術コレクション:維新後の事業家・文化人の軌跡」志村和次郎著、ゆまに書房、2011年

ロンドンで留学していたころ、気分転換に美術展へよく出かけました。市内には博物館や美術館がたくさんあります。そのほとんどが入館無料です。大英博物館など、一日ではとても見尽くせない規模でした。修士課程を終えて帰国の際に一番名残惜しかったのは、イギリスでのコンサートや美術展から疎遠になってしまうのではということでした。

しかしその思いは杞憂に終わりました。東京にも立派なミュージアムが沢山あります。入場料はかかりますが、日本にいながらにして一流の美術展が海外からたくさん来てくれるのです。ヨーロッパ、アメリカはもちろんのこと、アジアやアフリカなどの珍しい作品を鑑賞することもできるのですね。本当にありがたいことです。

ミュージアムには国公立が運営するものもあれば、私設のものもあります。出光美術館、五島美術館、大倉集古館などはいずれも事業家が作ったものです。コレクションに励み、私財を投じて後世のために作品を展示し、残してくださった方たちが昔の日本にはいたのです。

本書はそうした事業家が作った美術館およびその経緯について説明する一冊です。日本全国を見渡してみると、実に多くの事業家が美術品を残すべく尽力したことが本書からはわかります。

中でも印象的だったのは住友財閥の住友春翠(1865-1926)です。大阪・中之島図書館建設のために寄付をし、京都の泉屋博古館設立にも尽力しています。一方、大倉財閥の大倉喜八郎(1837-1928)は民間人洋行第一号として米欧へ出かけました。1872年のことです。ロンドンでは岩倉使節団と会い、伊藤博文と親しくなったというエピソードも印象的でした。

今や様々な文化財を手軽に私たちがミュージアムで鑑賞できるのも、こうした古の事業家たちが海外渡航も困難な時代に奔走してくれたおかげです。美術館設立の背景を知ることのできる、興味深い一冊でした。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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