INTERPRETATION

第436回 「正解探し」が正解なのか?

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

ドヴォルザークの「新世界」と言うと、下校のメロディを思い出します。当時私が小学校2年生まで通っていた地元の学校では、夕方5時になるとあの旋律が学校のスピーカーから流れ、放送委員の上級生が「5時になりました。生徒のみなさんは帰りましょう」とアナウンスしていたのです。「幼稚園児プラス・アルファ」ぐらいの幼かりし私にとって、6年生の話し方は大人そのもの。「あのように素敵にマイクに向かって話したいなあ」と思ったものでした。それがどういう巡り合わせか、「マイクを使う仕事」に携わるようになったのですから、人生というのは面白いなあとつくづく思います。

私にとってこの曲は特別な意味合いがあります。私の誕生を記念して父が横浜のレコード店で買い求めたのが「新世界」。指揮はカラヤンでした。記念すべき1枚ということになります。

我が家ではよくクラシック音楽が流れていたこともあり、私自身、クラッシックは好きで今もよく聴いています。留学中にはマリス・ヤンソンスという素晴らしい指揮者に巡り合うこともでき、私の人生観や仕事観も変わりました。そのことはこのコラムでも何度かご紹介しています。私の職業人生において、語学とクラシック音楽は密接に絡み合っているのです。

なぜここまでクラシック音楽に惹かれるのでしょうか?改めて私なりに理由を考えてみたところ、「解釈」ということばが思いつきました。それが通訳と似ているのです。具体的に見てみましょう。

通訳の場合、「話者が話すことば」があります。通訳者はそれを目的言語に訳すわけですが、その訳語に「絶対的正解」はありません。もちろん、「もっともそれに近い言葉」に置き換えることは必須です。けれども、Aという単語を目的言語のA+やA-あるいはA”的なニュアンスで訳したとしても、話者のイイタイコトにつながるのであれば、それは正しい訳になります。言い換えれば、同じレベルの通訳者が3人いて、同じ文章を訳した場合、3通りの訳文ができてもおかしくないという世界なのです。

ではクラシック音楽はどうでしょうか?作曲家は楽譜という記録物を後世に残しています。演奏家はそこに書かれた音符や音楽記号を元にメロディを再現していきます。「アレグロはこれぐらいの速さ」「四分音符はこの長さ」「Cの音はこの音程」という具合で正しい解釈法はあるのですが、それ以外の細かい部分をどのようにとらえるかは各演奏家によりけりです。

昨年秋、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の来日公演を聴きに行ったときのこと。アンコールはブラームスの「ハンガリー舞曲」でした。この曲はヤンソンスのコンサートやCDでずいぶん聴き込んでいたため、私の中ではメロディやテンポに対する基準ができあがっていました。一方、当日の指揮者パーボ・ヤルヴィ氏の解釈は私にとっては大いに新鮮に映りました。それぐらい演奏には個人差が出るのです。

それからほどなくして、私は別の衝撃を受けました。旧ソ連からベルギーに亡命したピアニスト、ヴァレリー・アファナシエフ氏の演奏です。きっかけは氏の著作「ピアニストは語る」(講談社、2016年)を読んだことでした。アファナシエフ氏が他の奏者とはかなり異なる解釈をしていることを知り、動画サイトで聴いてみたのです。曲はシューマンの「クライスレリアーナ」。高校生の頃、私自身が夢中になって弾いた曲です。

その演奏は、ヤルヴィ氏の「ハンガリー舞曲」同様に私にとって衝撃的でした。私がそれまで抱いていた解釈と全く異なるのです。楽譜を見れば確かにその曲であることに変わりはないでしょう。けれども、とらえ方というのは演奏家に委ねられているのだということを改めて知ったのです。と同時に、曲そのものを大幅に書き換えたり逸脱したりしない限り、そうした演奏も解釈も有りなのだと感じました。つまり、通訳業務的観点からすると「訳出や訳語の選び方に絶対的な正解は無いのだ」ということになります。

人間というのは、「手っ取り早く正解を知りたがる生き物」だと私は思います。通訳学校において受講生が模範訳を期待したり、効果的なメモ取り方法を教えてほしいと思ったり、という具合です。もちろん、実力向上を図る上でそうしたマインドは大切です。けれども、基礎的な部分を学習したら、また、プロを本気で目指すのであれば、後は自分で正々堂々と自分なりの解釈を探すしかありません。既知の演奏曲であるのに、思いもよらなかったメロディを耳にした私は、自らの仕事においてそのような気概を抱かねばならないと感じました。

これは通訳業務だけでなく、後進の指導においても同様だと私は考えます。「これとこれとこの練習法をやれば、同時通訳技術の向上につながります」と私が言うのは簡単です。けれどもそれではいつまでたっても学ぶ側が自分で考えて大海に歩み出すことはできなくなってしまいます。私の指導法や指導内容「だけ」を学習者が信じてしまうことは、危険だとさえ私は感じています。

「正解探し」が正解なのではありません。ある程度のレベルまで到達したら、あとは自らの答えを見つける旅に踏み出すしかないのです。それが本来の学びであり、その孤独に耐えられることも大切だと思っています。

(2020年3月17日)

【今週の一冊】

「アメリカ大使館 神といわれた同時通訳者―英日通訳者・日英通訳者のカミワザ」松本道弘著、さくら舎、2020年

大学生活も後半に差し掛かったころ、私は週末に通訳学校へ通っていました。当時の私は学部の授業に身が入らず、アルバイトとサークル活動に明け暮れていました。現役で合格はしたものの、入学した学科に関心を抱けなかったのです。唯一の例外が通訳の授業でした。幸い私の学科は他学部他学科の授業も単位として認めていました。この制度が無ければ私は通訳者になっていなかったでしょう。

その授業で先生が紹介してくださった学校が、件の通訳学校でした。通い始めてしばらく経った頃、ゲストスピーカーとして登壇されたのが今回ご紹介する本の著者、松本道弘先生でした。

松本先生は海外に一度も出ることなくアメリカ大使館の同時通訳者を務められ、後にNHK教育テレビ(現Eテレ)で上級編の英語学習番組を担当されていました。私にとっては雲の上のような方です。その先生が目の前で話してくださっていることに大いに私は感激しました。そしてどうしてもお話したかった私は講演後に先生の立っておられるところまで行き、お声をかけさせていただいたのです。私の質問に興味を持って下さった先生は、「今度ぜひ弘道館にいらっしゃい」とお招きくださいました。そして私は留学で日本を離れるまで毎月欠かさず先生の私塾・弘道館の塾生として通うこととなったのです。

弘道館は実に刺激に満ち溢れていました。英語の音読、速読、ディベート、プレゼン、同時通訳など、月1度、朝から晩まで私たちは学び続けました。メンバーは様々なバックグラウンドを持ち、年齢層も幅広いものでした。社会人の方々から多くのことを学べたのも、弘道館のおかげです。

その弘道館にある日、ゲストで来てくださったのがアポロの通訳で有名な西山千先生でした。松本先生の恩師に当たります。かつて松本先生はアメリカ大使館で西山先生の元、同時通訳を訓練されていたのです。その当時のエピソードが盛り込まれているのが、今回ご紹介する一冊です。

私は西山先生のパフォーマンスをあの日弘道館で間近に拝見し、私にとっての同時通訳の理想形が定まりました。今も西山先生のあのお姿ははっきりと覚えています。美しい日本語と英語、そして間(ま)の取り方、どれをとっても芸術作品並の美しさでした。

本書には師弟であるお二人の様子が満載です。とりわけ西山先生の通訳業に関する語録は、通訳者としてあるべき姿の神髄であり、時代を経ても色褪せるものではありません。中でも私にとって心に残ったのは「ゆっくりあわてず同時通訳すること。日本語は美しく、耳に響きがいいように話すこと」(p84)でした。ここに西山美学が集約されていると思います。

通訳の世界では「これだけ拾えた」という訳出量「だけ」がフォーカスされることがあります。一方、通訳学校においては「メモの取り方」「サイトラの仕方」という技術面そのものの学習が勉強の完成形ととらえられることも少なくありません。けれども本書を読むと、西山先生がいかに聴衆を第一に考えておられたかがわかります。

物事の神髄というのは、どれほど年月を経ても変わりません。通訳業しかりです。その大切さに気付かせてくれる一冊です。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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