INTERPRETATION

第437回 知識という樹木

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

コロナウイルスのニュースがトップになる中、何かと気持ちが落ち着かない方もいらっしゃるでしょう。私自身は最近、ニュースの現場でコロナウイルスとアメリカ大統領選の話題を訳すことが多くなっています。

ニュースにおいてそもそもハッピーな話題が取り上げられることはあまりありません。暗いトピック、人の生死に関わること、幼い子どもたちが戦場で苦しんでいることなどを通訳するのがメインです。人間のおろかさ、技術の脅威、不治の病など、私一人単体のチカラではどうにもならないことを大量に訳すことになります。

かつてビジネス通訳や通訳ガイドがメインだったころは、商談が成立する瞬間に居合わせたり、日本の名所旧跡に喜んでくださる方とご一緒できたりということが主でした。私にとって幸せなことでした。人が喜ぶ状況に携われるのは、何物にも代えがたいからです。

では、暗い話題ばかりの放送通訳が嫌いかというと、むしろ私は非常にやりがいを感じています。今の時代、テレビを視聴する人が減る中、どれぐらいの方々がリモコンの2か国語ボタンをわざわざ副音声に切り替えてまで私の放送通訳を聴いてくださっているかはわかりません。もしかしたらゼロという時間帯もあるでしょう。それでも私は構わないと思っています。なぜなら時事トピックというのは、私に多くの問題提起をしてくれるからです。

たとえばトランプ政権が誕生した直後の頃。

私は「なぜそもそも政治経験ゼロのトランプ氏が当選したのか?」ということに非常に興味を抱きました。国際政治学者の本を始め、トランプ氏の人格分析をしている精神科医の論文にまで手を広げたこともあります。

一方、昨今のコロナウイルスに関しては、20世紀始めのスペイン風邪に興味が出ました。折しも昨年、ロンドンを旅した際、ナイチンゲール・ミュージアムでスペイン風邪特別展をやっていました。それを思い出しつつ、ナイチンゲールの生涯に関する本を読んだり、日本の看護教育に関する書籍を求めたりもしました。かつて日本ではナイチンゲールの看護学に影響を受けた新島八重(同志社大学設立者・新島襄の妻)が、日露戦争の負傷者の手当てに尽力しています。そこから新島襄や同志社についても興味が沸きあがりました。

このような具合で私の場合、ニューストピックが一つの出発点となり、どんどん広がることに大きな喜びを覚えるのです。そして学んだことを指導の場を始め、家族や友人とシェアする、こうして文章にするなど、さらに広めていくことが放送通訳に携わる私の務めなのではないかと考えています。

本来であれば「通訳技術力向上のための訓練」に私は多くの時間を割かねばならないのでしょう。言語変換スピードを上げる、単語力アップを図るといった具合です。けれども目下の私は「知識という樹木」にどんどん枝葉をつけて広げることに焦点を当てています。

人生のおける学びは長距離レースです。英語そのものの学習が少し控えめになったとしても、それに焦るのではなく、今現在自分が興味のある知識力の蓄えを堂々と進めていきたいと思っています。

(2020年3月24日)

【今週の一冊】

「ベニシアの四季の詩」ベニシア・スタンリー・スミス著、世界文化社、2014年

ベニシアさんのお名前だけは以前から耳にしていましたが、これまで著作に触れる機会はありませんでした。きっかけは私の中の「京都ブーム」です。

それまでの私は京都イコールお寺というイメージ一色でした。その元となったのが中学の修学旅行。日本史にとてつもなく疎い私にとり、次々と訪ねる神社仏閣は正直、苦痛でした。「安土桃山時代」と言われても「西暦でないとわからないー」という状態だったのです。ちなみに中2の秋にロンドンから編入した日本の中学校で受けた最初の授業は日本史。「徳川幕府」と教科書にあっても、「トクガワwho?」でした。

そうしたことから京都は何となくずっと敬遠していたのです。

以前このコラムでも書きましたが、昨年秋ごろにふとした偶然から私は大津事件、ニコライ二世に関心が出始めました。そしてどんどん広がっていきました。京都への興味もそこにつながっています。しかも大好きなレトロ建築が実は京都市内に沢山あることを知り、今ではすっかり京都ファンとなったのです。

さて、今回ご紹介する一冊はイギリスの貴族出身でもあるベニシアさんのエッセイです。テレビでも有名なベニシアさんですが、現在も京都・大原の古民家に暮らしながら、ハーブやライフスタイル全般に関する著作を出しておられます。本書は4つの季節からとらえたベニシアさんの人生観が綴られています。本を開くと左に日本語、右に英語が対訳となっており、ベニシアさんのイラストや写真も満載です。

ちょうど私は「そろそろ音読トレーニングもしなければ」と思っていたところでした。そこでベニシアさんの風情溢れる英文を音読してみました。とても心が洗われましたね。たとえば”Sometimes without us really realizing it, synchronicity occurs – the timing is perfect.”の文章から、私は人生における出会いのタイミングを改めて感じました。一方、”My life has always been a series of stepping stones”の一文では、私自身のこれまでを振り返るきっかけを得ました。幸せな気持ちになりながら音読できました。

英語の学びというのは、機械的なトレーニングにしてしまうと無味乾燥になってしまいます。自分の好きな作家、心に響く文章を味わいながら、こうして音読をしたり美しい写真やイラストを眺めたりしていると、勉強が勉強ではなくなります。心が満たされます。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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