INTERPRETATION

第440回 相手を知る

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

通訳者デビューをして間もないころ、何と「釣り道具」の通訳を仰せつかったことがありました。それまでの私における釣り経験は限りなくゼロ。小学校6年生のとき、当時住んでいたイギリスでなぜか突然釣りがしたくなり、近所の川を探し求めて父に車を出してもらったことがあります。ところがイギリスというのは護岸工事がなされておらず、腰を落ち着けてじっくり釣りをする場所が、少なくとも我が家近郊では見つからなかったのです。釣りに関してはそれぐらいしか接点がありませんでした。

とは言え、「通訳経験はありません」とエージェントに言ってしまえばチャンスを逃すことになります。

「失敗したらどうしよう?お引き受けするのはコワイ。でも勉強すれば何とかなるかしら?だけどプロから聞いたら私が素人であることはバレバレになりそう・・・。」

どのような分野であれ、通訳者というのは新たなトピックをあてがわれると、このような思いに見舞われてしまうのです。

とは言うものの、一旦お引き受けしたらあとは精一杯努力をして予習をするしかありません。釣り案件で私はその後、すぐに書店へ走り、釣り関連の雑誌を手に入れ、駅の売店で釣りの専門紙を購入。そこからは当日までひたすら猛勉強です。

これが通訳者の「依頼→引き受け→勉強開始→受験生並みの集中予習→当日」という流れです。これはどれだけテクノロジーが発展したとて、生身の人間が通訳をするのであれば、こうしたプロセスを踏むことになります。その日の業務が終わるまで、緊張状態がMAXという感じです。

ここまでの負荷が心身にかかってしまう通訳というオシゴト。では通訳者にとり、これが面倒なのかと言えば、むしろその逆です。「大変~」と言いながらも、通訳者は皆、勉強が大好き。プレッシャーがかかるほど底力が出てくる。しかも未知の内容をどんどん知ることができる。これほど幸せな職業はないと誰もが思っているのですね。某CMではありませんが、まさに「♪やめられない、止まらない」なのです。

さて、世界で猛威を振るっている新型コロナウイルス(ちなみにマスコミ表記は「ウ『イ』ルスとなっており、大きい「イ」です)。私は放送通訳でたくさんこの話題に触れているため、いったんスタジオを離れたらなるべく見聞きしないようにしています。むやみやたらと最新情報にありつこうとしたりSNSなどを見てしまったりすると、それだけで不安になるからです。なのでここは発想を転換してみました。通常の通訳業務と同じく「敵を知るべく」・・・いえ、「勉強の対象分野としてコロナウイルスを学ぶ」ことにしたのです。以下は私が「やったこと」と「具体的な勉強法」です:

1.感染症の本を日本語・英語で入手:
そもそも感染症とは何か、感染症の歴史、私たちはどう対応すべきかといったことを調べてみました。英文書籍で不明単語を調べたり、英文音読をしたりという具合。

2.感染症・伝染病を描いた芸術作品を探す:
たとえばサンサーンスの音楽「死の舞踏」、ブリューゲルの絵画「死の勝利」などを鑑賞。作品自体を味わうとともに、時代背景を歴史年表や百科事典でチェック。

3.スペイン風邪について調べる:
日本政府は1922年に「流行性感冒」というスペイン風邪に関する報告書を発行しています。これは内務省衛生局が出したもので、その復刻版が東洋文庫から2008年に出ています。これを通読し、現在のコロナウイルスに当てはまることがあるかを自分なりに考えてみました。

ざっとこのような具合です。

ちなみに以前、別件で病院に出かけた際には待合時間中、病名を日本語と英語で調べ、口パク音読をしたり、病名の語源(たいていはラテン語やギリシャ語)を電子辞書で調べたりするなどしていました。せっかくの長~~い待ち時間です。お陰で楽しく過ごせました。

そう言えば周囲からこう言われたこともありましたっけ:

「万が一、ミサイルが飛んできたとしても、あなたは逃げるよりもむしろ、ミサイルの仕組みから歴史に至るまでそのまま勉強しているのでは?」

・・・あながち否定できないかも。「相手を知りたい!」ゆえの職業病、ですね。

(2020年4月21日)

【今週の一冊】

「京都おつつみ手帖」佐藤紅著、光村推古書院、2006年

京都ブーム、私の中では今なお続いています。今回ご紹介するのは、デザイン分野のお話。具体的には京都のお店で使われている「包み紙」をテーマにした一冊です。

私は紙そのものが好きであるため、それこそ紙辞書、紙地図、紙時刻表を始め、スイーツの包み紙やしおり、ショップカードなど、紙でできている物に年中注目しています。とりわけ包装紙やショップカードなど、芸術的に見ても本当に素晴らしいのですが、デザイナー名や完成に至るまでのプロセスというのはなかなか知られていないのですよね。黒子である担当の方々がいるはずなのに、ということは、通訳者と似ているような気がします。

本書はカラー仕立てでマップ付き。これを携えて京都のお店巡りをするのも楽しそうです。和菓子だけでなく、雑貨店なども取り上げられています。どの包み紙も工夫が施されており、歌川広重や棟方志功が手掛けたものもあります。

他にも工夫を施したお菓子箱も見ごたえあり。たんす風のものも素敵です。考えてみれば、日本のこうしたハコ・包み紙というのはとにかく捨てがたいですよね。

外出自粛の今だからこそ、こうして本を通じて旅気分を味わえるのは幸せなことだと思っています。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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