INTERPRETATION

第446回 他人のペルソナ

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

通訳の仕事を長年続けていると、日常生活が仕事を中心に回っているような感覚になります。「あ、これも知っておくと便利そう!」「せっかくだから調べてみよう」「関連のある場所へ出かけてみよう」という具合。すべてが学びの対象になるのですね。私の周囲を見渡してみても、どの通訳者も好奇心旺盛でフットワークも軽いようです。「仕事を通じて新しいことを知る喜びを得られる」という、ある意味では稀有な職業であり、私個人としてはとてもありがたく恵まれたことだと感じます。

もう一つ、私にとって幸せなことがあります。それは話者に感情移入して、話者になりきれるということです。

小学校5年生のときのこと。当時暮らしていたロンドンで、私は毎週土曜日午前中に「ロンドン補習授業校」に通っていました。これは平日、現地校に通学する日本人師弟が土曜日午前中に国語を学べる学校です。同じ日本人の仲間と会える週1回の授業が私にとっては大きな楽しみでした。

その国語の授業で教科書に出てきたのがシェイクスピアの「リヤ王」です。四大悲劇の一つであるこの作品は、王の遺産を巡り3姉妹がバトルするという内容です。そのときに私が演じたのは意地悪な長女の役でした!あれが私にとって人生初の演劇だったのですが、なぜかものすごくハマってしまい、徹底的に「悪人・姉さん」を演じたことを覚えています。おそらく平日の現地校で英語も話せず友達もおらずという環境で鬱屈しており、その発散先を求めていたのかもしれません。

以来、「他人のペルソナになりきる」ということは、私にとって実に興味深いテーマとなりました。

ところでペルソナと言えば、先日ネットで読んだブルゾンちえみさんのインタビューが印象的でした。婦人公論のウェブサイトからの引用です。

「『ブルゾンちえみ』というキャラクターは、上から目線でバシッと自分の考えを表現するけれど、本当の私の性格は、実は正反対。周りの空気を読みながら、マイルドに本音を伝えようとするタイプです。だからこそ、『ブルゾンちえみ』というペルソナをつけて、自分とはまったく違う性格を演じることは本当に楽しかった。それによって自分自身を解放できて、何度も救われてきたのも事実です。でも、仮面をつけて自分を偽り続けるのはもう限界でした。」

おそらく通訳の仕事というのも、これに近いのかもしれません。もっとも通訳者の場合、一旦業務が終わればすぐに素の自分に戻れます。ブルゾンちえみさんのように、偽り続けるのはさぞ大変なことでしょう。

せっかくですので、引用をもう少々。本名になったことについての記述です。

「これからは、『本能で生きるってこんなに気持ちいいよ』と心から言えることがとても嬉しい。心と体が密着していく感じがしています。可能性は無限大、何でもできるぞって、今は無敵な気分(笑)。たとえすぐには仕事が入ってこなくても、ちゃんと生きていける。そういう自信みたいなものは今、すごく湧いています。」

自分らしさを取り戻すことで、人は幸せを感じることができるのでしょうね。ブルゾンちえみさんの世界と通訳者の世界はかなりかけ離れているのですが、それでもこうして全く異なる分野で活躍する方の話す言葉には、私自身とても考えさせられます。

(「〈独占告白〉藤原史織『ブルゾンちえみを卒業した理由。自分を偽り続けるのはもう限界だった』」https://fujinkoron.jp/articles/-/2040 婦人公論.jp

(2020年6月2日)

 

【今週の一冊】

「R.シュトラウス:英雄の生涯」マリス・ヤンソンス指揮、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団、2018年

本来なら書籍をご紹介するのですが、今回はあえてCDをお届けします。

深く敬愛してきた指揮者マリス・ヤンソンス氏が亡くなって早5か月。昨年11月末の時点では、まさか2020年前半が新型コロナウイルス一色になるとは誰も想像していなかったことでしょう。私もその一人です。

コロナにより、私たちの生活は一変しました。働き方も家族の在り方も日常生活もすべて根底から覆されたように私は感じます。今まで当たり前だったことがそうではなくなりました。あまりにも普通のこととして、感謝の気持ちすら抱いてこなかったことが、いかに大切で、いかにありがたかったかを身に染みて感じています。

私にとって特に大きかったのは、「芸術」が私の目の前から遠のいてしまったことでした。もちろん、動画サイトやインターネットを通じていくらでも触れることはできます。けれども、実際にコンサート会場や美術館に足を運ぶ、他の方々と共に同じ空間で同じ空気を吸い、同じ感動を味わうということを私自身、どれほど切望していたかを今回感じました。

今できること。それは医療専門家の声に耳を傾け、ガイドラインを守り、一日も早くこのコロナ危機を脱することだと思います。それまでは多少しんどくても耐えるしかありません。与えられた状況の中でどれだけ日々を慈しみ感謝するか。それも人間の知恵にかかっていると考えます。

今回ご紹介するリヒャルト・シュトラウスの「英雄の生涯」。これはシュトラウスが1898年に作曲したもので、自らの姿を旋律にしたものです。英雄とその妻がテーマの中心にあり、英雄の姿や周囲の人間、敵との戦い、そして英雄の最期などが描かれています。非常に美しいメロディです。

この曲は私の人生においてとても大きな位置を占めています。ヤンソンスが元気なころ、何度かこの曲をコンサートで聴いてきたのです。そして2019年1月にはロンドンまで飛び、やはりヤンソンスの指揮でこの曲を聴きました。マエストロを見たのはあれが最後でした。舞台袖から指揮台へと歩む氏の姿を見た時、もう長くはないかもしれないという思いで私は胸が張り裂けそうになりました。

今、コロナという普段とは異なる環境下でこの曲を聴くと、残された者の使命を感じます。自分ができることは何かを考えさせられます。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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