INTERPRETATION

第583回 理想のレッスン

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

教える仕事に携わるようになってからずいぶん年月が経ちました。ひょんなことから指導の機会を頂き、生まれて初めてクラスを前にして指導したのは英検の授業でした。その時点で英検は取得していましたが、教えるとなると話は別。「名選手は名監督にあらず」とよく言われますよね。私自身が名選手だったかどうかは別として、自分が英検を持っていたからとて、効果的な指導ができるとは限りません。そのことを痛感した講師デビューでした。

何しろ人前に立って教えるのは初めて。学生時代に近所の中学生を家庭教師で教えたのが関の山でした。受講生が全員私を見ているという視線だけで緊張感はマックス。90分ほどの授業でしたが、教案を作って臨んだものの、いざ授業が始まるや時間配分はめちゃくちゃ。それで焦ってさらにわけが分からなくなってしまったのでした。思い出しても冷汗が出てきます。

でも通訳業同様、何事も場数を踏むに限るのですよね。何度も失敗をして試行錯誤をしていくうちに自分なりのひな型ができました。と同時に、指導法の本も読み漁りました。教授法の参考文献は各種出ていますが、内容のすべてを自分に当てはめることは難しかったため、使えそうなポイントだけ拝借したのです。

また、外部セミナーにも参加しました。自分が興味のある他分野の講演会も、「話し方」を知る上で大いに参考になったのですね。講演者の立ち位置、スライドの見せ方、話し方における「間(ま)」の取り方など、どれも勉強になりました。そうしたことを積み重ねていくうちに「私が受講生ならどのような授業を受けたいか」という視点が少しずつできていったのです。具体的には以下のポイントです:

(1)時間厳守
個人的な好みも大きいと思うのですが、私は時間ピッタリに始まり、延長しないセミナーが好きです。と言いますのも、講演会の場合、その後に予定を入れていることもあり、延長されてしまうと次のスケジュールに響いてしまうからです。質疑応答時間含めてすべて時間内に終わると助かります。

(2)話の出だしが勝負
セミナーや授業の冒頭というのは、参加者を惹きつける上でとても大切な瞬間です。講演者・講師の挨拶や話し始めがその後の流れを作ると言っても過言ではありません。私は最近、落語に行くことが多いのですが、話のマクラは実に参考になります。最近聴いた中で圧巻だったのは、「笑点」司会の春風亭昇太さんでした。登壇して「こんにちは」と笑顔で言った途端、そこでもう聴衆が爆笑。番組での昇太さんのお人柄があるからこそ、そして観客がみな昇太さんファンだったということもあるでしょう。挨拶だけで聴衆をグッと引き寄せる昇太さんの素晴らしさを感じました。

(3)イレギュラーへの対応力
随分前に出かけた講演会でのこと。講師がスライドを映し出そうとした際、パソコンが不具合を起こしました。「あれ?おかしいなあ。少々お待ちください」とご本人があれこれ動作確認をするも正常にならず。しばらくして横からスタッフが登場したものの、やはり直りません。聴衆は結局10分以上も着席したままとなりました。次第に観客の間でざわざわおしゃべりが始まってしまったのです。こうなると、せっかくまとまっていた空気が乱れてしまうのですよね。スライドが復活した後も何となく緩んだ雰囲気が漂っていたのでした。このような場合、スライド無しという最悪の事態も見据えて講演者は準備しなくてはならないと痛感しました。

(4)会場の空気を読み取る
普段授業の中で私が意識しているのは、常に教室内の空気を読み取るということです。対面授業の場合、同じ教室内にいると「今の受講生の集中度」がどれぐらいなのか何となくつかめるようになってきます。「あ、少し眠そうだな」「ちょっと集中力が切れた時間帯かも」というのが直感できるのです。そのような際には臨機応変で「立っておこなう活動」を取り入れたり、閑話休題で雑談をしたりと気分転換につながることを導入するようにしています。ただ、オンライン授業の場合、この「空気」をつかむことが私にとってはなかなか困難。これが目下の課題です。

(5)あこがれを探し続ける
教える仕事であれ通訳業であれ、自分にとっての「理想・あこがれ」探しは一生続くものだと思っています。年齢や性別・国籍を問わず、自分にとって「素敵だな」と思える人を常に探し、素晴らしい要素を拝借することが、より良い内容につながると私は信じています。そう考えると、日常生活の中での出会いもすべてかけがえのないものに思えてきます。

今回は「理想のレッスン」と題して綴ってみました。講師というのは受講生の貴重な人生時間を頂きながら指導をする立場にあります。教える側・教わる側双方にとって充実した授業にすべく、講師としてさらに工夫を続けたいと思っています。

(2023年4月25日)

【今週の一冊】

「世界を変えた100のポスター(上)」(コリン・ソルター著、角敦子訳、原書房、2021年)

私は美術の才能がからきし無いのですが、鑑賞するのは好きで、よく美術展に足を運んでいます。ロンドンの大学院で勉強していた頃は、連日の課題レポートのあまりのハードさに芸術鑑賞が唯一の息抜きでした。そうした「現実逃避」をしている際に出会ったのが、様々なポスター。とりわけロンドンの地下鉄ポスターやアールヌーヴォーの作品などに魅了されました。

今回ご紹介するのは、イギリスの歴史作家が解説するポスターに関する一冊。上下巻に分かれており、この「上巻」では1651年から1936年までの作品が紹介されています。ワクチン接種を促すポスターや、戦意高揚の作品、観光関連のものなど実に様々。オーストラリア移住をPRするものは、時代を反映させます。

個人的に興味を抱いたのが、葛飾北斎の浮世絵がポスターのジャンルとして紹介されていたこと。「神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)」という1829年の作品です。図の左側に大きな波しぶきを上げる青波と、その下に舟が小さく描かれています。一方、タイヤ会社ミシュランの初期のポスターはなかなかリアル。包帯をぐるぐる巻きにしたミイラにさえ見えます。

今やネットですぐに画像が手に入る時代。翻って昔は街頭や雑誌・新聞などのポスターが貴重なメッセージ源でもありました。時代の変遷を知ることができる一冊です。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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