INTERPRETATION

第602回 改めて、「誰のための通訳?」

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

ここでみなさんに質問です。

「あなたは会議通訳者としてデビューしたばかり。国際セミナーの同時通訳を仰せつかりました。聴衆は一般の方々。先輩通訳者とパートナーを組んで業務に臨みます。あなたは何を意識して通訳しますか?」

いかがでしょう?

「正確に訳す」「聴衆が聞きやすいようメリハリのある訳出を」「先輩通訳者とスムーズに交代できるよう気を配る」などなど。いずれも正解です。

ただ、悩む部分もあります。それは、「自分の通訳がお客様の耳に入る=すぐ隣にいる先輩通訳者もしっかり聞いている」ということ。つまり、自分の訳出レベルを真横でチェックされている、という状況でもあるのです。

プロを自認してデビューするのですから、お客様にしてみれば「先輩」も「後輩」もありません。同じ通訳者であり、同等の高いレベルの通訳アウトプットが求められます。でも、駆け出し通訳者にしてみれば、「自分はまだまだひよっこ。それに比べてお隣は大先輩。緊張するなあ」となるわけです。例えるなら、狭いコックピットの中の若手機長とベテランパイロット。若手機長の一挙手一投足を隣の大ベテランにチェックされる状態。通訳ブースもそのような感じになります。

こうした状況下では駆け出し通訳者も、自分がどこに意識を向けるべきか悩むことでしょう。「オーディエンスに集中したい。だからオリジナル話者の言いよどみや言い直しなどは端折ってコンパクトな訳出にした方が聞きやすいはず」という思いもある。でも隣の先輩が全訳するタイプだったら?「自分もすべて拾わなければ」という強迫観念に陥りかねません。でもそうしてしまえばお客様にとって冗長になってしまう。この狭間で悩むわけです。

ならば割り切って「たとえ先輩がどう思おうと、私は簡潔な訳出にする!」と我が道を進むこともできます。訳語選びに絶対的正解がないのと同様、アウトプットも「決定的な誤訳がなく、話者の『意図』を反映したもの」であれば、それも正しいのです。

私はデビュー当時このジレンマで悩んでいました。何しろ幼いころからビビり系でしたので、「間違ったら大変」「周りにどう思われるか」という基準で生きてきたのです。それだけに先輩の評価を必要以上に気にしていました。

でも、実際にはこの業界、優しい先輩方ばかり。むしろ困っているときにはフォローしていただいたり、リラックスできるようにとお菓子の差し入れを下さったりという方に私は恵まれてきました。伸び伸びと通訳をできたのも、そうした先輩方のお陰です。

だからこそ私自身、「自分らしい通訳アウトプット」を進めることができたのだと思います。とりわけ逐次通訳の場合、お客様の立場からすれば「聞きたいのはゲストの話」ですので、通訳部分が長すぎるとジリジリしかねません。よって「気持ち少なめ」にした方が、話者と通訳者のテンポも良くなります。このことに気づかされたのは、私自身が聴衆として未知の言語のセミナーに参加し、逐次通訳の様子を見たときでした。

これからの時代はAI通訳技術が大いに発展していくことでしょう。ヒトの脳と異なり、無限大に単語や構文を備えたAI通訳は無敵です。でも、コンパクトな訳出や臨機応変さにどこまで対処できるかはわかりません。AI通訳が席巻するまでは、「誰のための通訳?」を意識しながらお客様のお役に立ち続けたいと思っています。

(2023年9月19日)

【今週の一冊】

「Mornington Crescent東京の英国菓子」ステイシー・ウォード著、パルコ、2020年

「モーニントン・クレセント」と聞いてすぐに地下鉄駅名を思い起こせる人は、かなりのロンドン通。Mornington Crescent駅は1992年にエレベーター工事のため閉鎖。そのまま駅全体が廃止という噂も出ましたが、ようやく1998年に営業再開となりました。その間のロンドン地下鉄マップでは駅名の上に大きく×印が付いていたのです。

その駅名を彷彿させるお菓子教室(通称「モンクレ」)が東京は麻布十番にあります。著者のステイシーさんは英国の美術大学出身。幼いころから日本に魅了され、埼玉県での英語教員を経てお菓子教室を始めました。本書にはイギリスの伝統的なお菓子がたくさん出ています。

私は幼少期にイギリスで過ごしたため、英国菓子が大好きで郷愁の念を抱きます。中でもスコーンとキャロットケーキが好物。日本でも味わえますが、イギリスであのビッグサイズと大らかな(?)甘さにありつくと、「ああ、イギリスに帰ってきた!」と嬉しくなります。

英国菓子レシピ本は洋書でたくさん出ていますが、説明文がオール英語でしかも長め。ケーキを作りながら英文解釈をしたい向学心旺盛な方には良いかもしれませんが、手軽に作りたいなら本書のオールカラー・写真付きの方が取り掛かりやすいでしょう。あ、ステイシーさんは日本語文・英文両方で説明なさっていますので、もちろん、英語を学びたい方にもオススメです!

私個人が魅了されたのは、ステイシーさんの生い立ちやモンクレを創業するまでのエピソード。お菓子作りが好きで日本大好きという熱意が、ステイシーさんをここまで誘ってきたことがわかります。人は情熱を抱いていると、おのずと道が開けるのでしょうね。勇気を頂けた一冊でした。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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