INTERPRETATION

第610回 プロへの本気度

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

私は幼少期に6年間海外に在住し、うち4年間が英国。高校は帰国子女の多い学校に入り、大学も英語話者の多いキャンパスでした。大学3年以降、通訳の授業を受講し、就職後も英語を使う仕事をしていました。社会人になってしばらくしてから、通常の英会話学校以上のレベルを身につけたいと思い、某通訳学校の門を叩きました。

しかし、レベルチェックテストの評定は通訳コースではなく、準備クラス。私はこの結果に非常にショックを受けました。なぜならそれまでの自分自身の生い立ち、英語と触れ合った年月、まがりなりにもイギリス英語への理解と話力への自負、そして通訳授業を受講したという経験から、必ずや自分は通訳のレギュラーコースに入学許可されると信じていたからです。

この結果は、私のプライドや通訳という職業、およびそのスクールへの評価を大いに変容させました。プライドは傷つきましたし、「通訳の授業をとったことがある私は、通訳という仕事も理解している。なのになぜ?」という不満がスクールに対して如実に抱かれたのです。しまいには、「このスクールは、お金儲けのために、レベルのある人も敢えて下のコースに入学させるのでは?」という穿った不信感まで出ました。

結局私はこのスクールに入学しませんでした。そもそも、準備コースに自分が入るということ自体、自分のプライドが許さなかったのです。「他の初歩レベルの人たちと一緒の空間で勉強する自分」に耐えられなかったのが主な理由でした。その後、数年間、私はこのスクールに対して芳しい印象を抱くことはできなかったのですね。

今、私自身が当時を振り返ってみると、なぜあの準備コース評定だったかは大いに納得できます。プライドの高さが声色(当時はカセットテープに吹き込みのテスト)に表れていたと思いますし、その一方で、時事問題テストにおける自分の知識は中途半端。私は内心、「英語の発音が良くて、日本語訳がそこそこできていれば通訳なんて簡単」と無意識に思っていたはずです。そこをスクール側は見事、見抜いていたのでしょう。そんな根性の人間が通訳界にデビューして良いわけはありません。それに気づかせるために、スクールは私に準備コースという評価を下した、と今なら納得できます。

若さというのはある意味、無敵であり無鉄砲です。それは良い原動力にもなります。しかし、そのまま突き進んではいけない場合もあります。とりわけフリーランス通訳者の場合、一匹狼的な印象ですが、お客様や他の通訳者との協調性も必要です。また、現場では臨機応変さも求められます。自分の訳出によって、商談結果や相手の人生が変わってしまうことさえありうるのです。だからこそ、常に学び続ける姿勢が求められますし、謙虚さも必要とされます。

私の知り合いで定年後に日本語教師になった人がいます。その人は若い頃、「サイドビジネスで日本語教師でもやれれば」と思っていたそうです。しかし、いざ日本語教師養成の勉強を始めてみると、「とても片手間にできるものではない」と痛感したとのこと。「通訳の仕事も、『副業でやりたい』と言う人がいると思う。でも日本語教師同様、本気で取り組むべき仕事ですよね」と私にしみじみ語ってくれました。私はこのことばを聞き、とても勇気づけられたのを覚えています。

英語が話せて英語の発音が良い、ということ。
日本語が話せて日本語の発音が良い、ということ。

こうした要素だけで、プロの通訳者や日本語教師になれるわけではないのですよね。

プロになるには本気度が必要、と痛感しています。

(2023年11月21日)

【今週の一冊】

「三くだり半からはじめる古文書入門」高木侃著、柏書房、2011年

「三行半(みくだりはん)」とは江戸時代に夫が妻へあてた離縁状のこと。文字通り、三行半で書く習慣があったことから、この名となりました。当時の女性の人権は、今からは想像を絶するような状態。そうした中、何かしらの理由があり、夫が妻と離婚する際にこの三行半が用いられたのでした。

本書を手に取ったきっかけは、たまたま調べていた「縁切り」から。東京都板橋区の縁切榎や赤坂の豊川稲荷東京別院が縁切り神社・仏閣であると知り、そこから派生して「三行半」に興味がわいたのでした。

本書は「古文書(こもんじょ)」の解読入門という位置づけ。古文書にも色々ありますが、三行半から読み解いてみると、当時の世相も浮き彫りになります。たとえば女性や男性の名前。いわゆる現代のキラキラネームとは程遠く、女性の場合はほとんどが2文字です。たとえば、「たき」「ひさ」「みつ」という具合。一方、男性は歌舞伎役者の名前に似ており、「~右衛門」「~左衛門」「~助」などが目立ちます。余談ですが昨今の日本の赤ちゃん名づけ傾向としては、ジェンダーレスの名前が好まれているのだとか。

本書は段階式に解読法が書いており、初心者でも親しみやすくなっています。基礎が読めるようになると、美術展の掛け軸解読などにも役立ちそうです。

中でも私にとって印象的だったのは、「妻から夫へ向けた離縁状」(p170)。三行半ではなく、「長編」(!)で、2009年に新潟県十日町で発見されました。女性の権利が乏しい中、離婚を切り出した当時の女性の勇気がにじみ出ています。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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