INTERPRETATION

第239回 アレッポの石鹸

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

毎年年末になると私はNPO団体のグッズを購入しています。国際協力団体からはクリスマスカード、年賀状や各種文具を手に入れます。一方、環境関連団体から買うのは生活グッズや食材などです。市販されている一般的な商品と比べれば多少値は張るのですが、ささやかでもその団体の活動にお役にたてればと思うと、たくさん買いたくなります。

今年購入した生活グッズは、オリーブオイルに紅茶、干物やトイレットペーパー、砂糖に石鹸などです。中でも個人的に思い入れがあったのが「アレッポの石鹸」でした。

アレッポとはシリアに古代からある都市で、ここでは昔から独自の製法で石鹸が作られています。作業工程は長期にわたり、代々受け継がれてきているそうです。自然成分のみで作られており、世界中の人々からその質の高さが評価されてきました。

私が初めてアレッポという地名を聴いたのは石鹸を通じてではありません。シリア内戦のニュースを通訳していたときでした。紛争開始からすでに数年がたちますが、シリアではいまだに政府軍と反政府勢力の対立が続きます。さらにその混乱に乗じて別の武装勢力が勢いを拡大させ、難民の問題はヨーロッパにまで広がっています。古代都市アレッポも空爆により甚大な被害を受け、石鹸の生産もままならなくなったのです。

今回、そのNPO団体のカタログを見ると、掲載されているアレッポの石鹸会社は危険地帯から撤退し、別の場所で操業を続けているそうです。その文章を読んだとき、私はニュース通訳で出てきたアレッポの街の光景を思い描いたのでした。何か私にできることはないか。石鹸を買うだけでも何らかのお役にたてないだろうか。そんな思いがあったのです。

他の購入商品と共にアレッポの石鹸も届きました。段ボール箱を開けると箱の隅に入っています。石鹸は日本のように小箱に入っているわけでもなければ、かわいらしいデザインのパッケージというものでもありません。深緑の石鹸が見えるよう、そのままシンプルに透明ラッピングがされているだけです。大変な情勢の中、商品は海を越えて日本まで来たのです。

実はこの石鹸を早速使い始めたころ、私は仕事が多忙で毎日あわただしい日々を送っていました。「師走」と言うにふさわしく、誰もがこの時期は忙しいのですよね。私も日々あれやこれやと取り組みつつも体力面でぐったりしていました。ある日のこと。寝不足のまま目を覚まし、さあ顔を洗おうと洗面台に立つと、ソープディッシュの上に置かれたアレッポの石鹸が目に入ったのです。

使い始めたときは意識していなかったのですが、石鹸の表面には文字のようなものが書かれています。私はアラビア語が読めませんので内容はわかりません。ただ、その文字の刻印を見たとき、わが身を反省したのでした。

当時の私はこう考えていたのです。「仕事が忙しいし、クリスマス・年末の準備もある。子どもたちのプレゼントも買わなくちゃ、大掃除もしないと。依頼されている原稿もそろそろ書き始めないといけないし、大学の期末テスト準備もある。美容院にも行きたいし、カレンダーの転記もしなくては」と。

私はそのころ「あれもやらなきゃ、こっちも取り組まないと」と心が急いていたのですね。けれどもこの石鹸が生まれたシリアでは、人々が生きるだけで精一杯という状況が続きます。そうした大変な中でも石鹸が生産され、何とか日本にまでたどり着いてくれた。これだけでも大きなことだと思うのです。

人は悩みを抱えていたり、多忙な状況に置かれたりすると、ついつい自分「だけ」が大変のように思えてしまいます。自分の苦悩が肥大化してしまうのです。けれども、「自分のみが苦しい」という思いから少し視点をずらして眺めてみることも大事なのではないか。

アレッポの石鹸からそのようなことを感じたのでした。

(2015年12月14日)

【今週の一冊】

「PHP12月号」 PHP研究所、2015年

PHPとはPeace and Happiness through Prosperityの頭文字で、パナソニック創業者の松下幸之助が設立した団体です。雑誌のほかにも書籍を出版したり、セミナー開催や政策提言などを行ったりしています。

今回ご紹介する月刊「PHP」は創刊が昭和22年(1947年)、戦後間もないころでした。「心」をテーマにした記事が多い一方、グラビア写真や生活術、著名人のエッセイなど、様々なトピックが取り上げられています。

私はレギュラー読者ではないのですが、今回は特集の「心をスッキリ整える」の題に惹かれて購入しました。書店でこれを入手したころは仕事が何かとあわただしく、少々疲れ気味だったのですね。そのようなときにはこうした文章を読むことで私は元気を得ています。

特集に掲載されていたのは、作家・津村記久子さんや将棋棋士の羽生善治さん。中でも津村さんの「しんどい人からは黙って逃げる」というのは面白かったですね。津村さん自身がご自分を冷静に分析しつつ、人間関係におけるご本人ならではの解決法を導き出していた様子が印象的でした。

一方、羽生さんの「反省するタイミング」は通訳業務にも応用できます。羽生さんの場合、対局中に反省し始めると集中力が途切れてしまうのだそうです。これは通訳のときも同様です。「先ほどの訳語はあれでよかったのかしら?」と思い始めると、「今、この瞬間」に集中できません。「とにかく目の前の対局に集中し、余計なことは考えない。今やるべきことに集中し、反省はあとですればいい、と思えば心乱れることも少なくなります」という羽生さんの言葉に励まされました。

本や雑誌というのは活字や写真だけの世界ですが、それが読者に与えてくれるエネルギーは大きいですよね。自分が疲れたとき、どのような媒体なら自分は元気になれるか。そうしたものをいくつか持っておくのも大事だと感じています。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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