INTERPRETATION

第271回 リテンションの付け方

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

通訳の指導をしていると、色々な質問を受けます。メモ取りの方法、リサーチの仕方、基礎英語力の付け方など多岐に渡りますが、中でも一番多い問いが「どうすればリテンション力を上げられるか?」です。「まとまった文章を聞いた後に逐次通訳をしようとすると、頭の中が真っ白になってしまう。だからそれを防ぎたい」「聞いているときはわかるものの、メモをとるのに一生懸命になりすぎてしまい、いざ訳そうとすると自分の筆跡が解読できない」など、みなさんそれぞれ悩みがあるようです。

リテンションに関しては、私は今でも悩んでいます。通訳現場というのはただでさえ緊張する場です。「フォーマルなセミナーで聴衆は専門家の先生方」「大きな会場でお客様も多く、セッティングだけで気おくれしてしまう」など、委縮するような雰囲気がただでさえあるからです。

では、どのようにすればリテンションをしっかりさせ、訳出に反映させられるでしょうか?私がこれまでの経験から出した結論は、「とにかく知識量を増やすのみ」です。

確かに記憶力を強化し、たくさんの語彙を覚え、難しい英語構文を理解することができれば訳出の精度も大幅に上がります。けれども自分が知識として身につけていないことは、どうしても表面的な訳で終わってしまうというのが私自身常々感じてきたことでした。聞き手にはそれなりに受容できるアウトプットなのかもしれません。けれども私の場合、「うーん、単語としてはたぶんこれで良いのだけど、元の内容がわからな~い!ゴメン!」という後ろめたさが常にあるのです。声に不安感が表れてはなりませんが、そうした「心の中では謝罪モード」という状況に陥ることが少なくないのです。

ゆえにリテンションの実力をアップさせること「だけ」に心血を注ぐことはやめようと決めました。その代わり、「生きている限りすべてが学び」ととらえ、広く浅く、そして狭く深く学び続けることが自分の業務上の任務であると今は考えています。この場合、どこから手を付ければ良いか、どのように勉強すれば良いか、大海原を前にして途方に暮れてしまうかもしれません。なぜなら、学びの対象も学習方法も正解のない世界だからです。

けれども、そこで躊躇してしまえば一歩も前に進めません。大事なのは昨日よりも今日、先ほどよりも今、何かしら新たな知識を蓄えることが、5年後、10年後の業務に生きてくると信じるのみなのです。

今の時代、何事もスピーディーに効率的に取り組むことが求められます。情報がたくさんある中、そして世界が忙しい中、回り道をしていては取り残されてしまいます。

けれども私はこう思うのです。効率を求めれば求めるほど、ゴールから遠のくのではないか、と。

今、読んだ本の内容や、朝ざっと眺めた新聞記事が即、次の通訳業務で役に立つ保証は一切ありません。いえ、むしろ一生役立たずという可能性の方が高いとさえ言えます。しかし、通訳の仕事というのは、いつ、どこで、何が飛び出すかわからないのです。どのような内容に遭遇しても、幅広い一般常識や知識を蓄えてさえいれば、類推の力で対応することができます。

よって、「リテンションをどうすれば付けられますか?」という問いへの私の答えはこうなります。

「目の前のことすべてを学びととらえ、貪欲に吸収すること。」

それが一番の近道だと思うのです。

(2016年8月8日)

【今週の一冊】

「世界の夢の図書館」 エクスナレッジ発行、2014年

通訳準備をしていると、目に入ってくるのはもっぱら「活字」です。参考資料に著者の文献、最新の論文に新聞・雑誌記事など、とにかく日本語と英語の文字をひたすら読み進めるのが仕事だからです。「通訳の出来というのは、当日までの予習が9割」と昔言われたことがありますが、まさにその通りです。

随分前のことですが、仕事が多忙になり、それ以外でも難しいことが続いた時期がありました。心身ともに不調となり、専門家の助言を受けたことがあったのです。そのときに言われたのが、「活字ばかり・勉強三昧の生活では心がくたびれてしまう。おいしいものを食べたり、映画館や美術館に行くなどするように」というものでした。以来、業務があわただしいと感じられるときほど、仕事とは無関係のことをほんの少しで良いので取り入れるよう意識しています。

その方法のひとつが「美しいものを見ること」です。時間的に美術展などへ行けなくても、車窓から眺める景色やウォーキング中に目に入る季節の移り変わりなどを意識するだけでとても癒されます。中でも私が好きなのは写真集を眺めること。今回ご紹介するのもそんな一冊です。

本書に紹介されているのは、世界にある美しい図書館。公共図書館を始め、修道院の図書館など、ページをめくるたびに建築美を味わえます。旅行というと、名所旧跡を訪ねることやショッピングなどが主流になりがちですが、図書館を訪ね歩くというのも、その国やその街の文化を別の切り口から知ることにつながるはずです。

ちなみに私は留学中、ロンドンの大英博物館図書室を訪ねたことがあります。大きな円形ドームを有するその図書室が作られたのは19世紀半ば。福澤諭吉や夏目漱石、南方熊楠などもそこを利用しています。今のように情報もなく、留学生などほとんどいない頃、まさにこの場に偉人たちが立っていたのだと思うだけで、身震いしたものでした。

図書館紹介の本は他にも色々と出ていますので、ぜひ類書も手に取りたいと思っています。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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